島袋洋奨投手が経験した期待と重圧 書籍の仕事まとめ#26 佐伯要著 短編「琉球トルネードの栄光と苦悩―島袋洋奨」
「甲子園V腕」の称号がもたらすもの
「甲子園V腕」の称号は栄光にもなり、重圧にもなるんだな……。
僕は、甲子園で優勝した投手を何人も取材してきましたが、彼らの話を聴くと、そう思います。
甲子園で優勝したからといって、その後も順調な野球人生を送っている人ばかりではありません。
2010年に春夏連覇を成し遂げた興南のエース左腕・島袋洋奨投手の場合、大学時代は苦しんだ期間のほうが長かったのではないかと思います。
興南の場合は、センバツを制して注目を浴びました。
いや、「浴びてしまった」といったほうがいいかもしれません。
甲子園で1勝するのが目標だったチームが、1つひとつ勝ち上がり、初優勝。
興南ナインが空路で那覇空港に着いたとき、約2000人が出迎えたそうです。
注目度が一気に上がると、ちょっとしたことで批判されます。
センバツが終わって、5月ごろに島袋投手を含む数名が、約1週間、グラウンドに入れてもらえない時期がありました。
我喜屋優監督の指導だったのですが、理由は「まゆをいじったから」。
注目されてなければ部内の話で終わるのに、この謹慎処分が目立ってしまった。
「天狗になっている」
「ほんとはもっと大きな事件を起こしたらしい」
そんなウワサが出回ってしまいました。
また、周囲の期待も高まり、「夏も勝って当たり前」という空気がつくられていきました。
期待する声、応援の声一つひとつが、プレッシャーに感じてしまうーー。
島袋投手は「意識しないようになんて、できなかった」と言っていました。
その重圧を乗り越えて、夏の甲子園でも初優勝。
沖縄に戻る飛行機のなかでは、キャビンアテンダントさんが「深紅の大優勝旗が、初めて沖縄にわたります」とアナウンス。
那覇空港では、約4500人の出迎えを受けたそうです。
センバツ優勝から夏の優勝まで、どれほどの心の動きががあったのでしょうか。
高校生がそれに耐えるなんて……。ちょっと想像できないことですよね。
大学では苦悩の連続だった
この短編ノンフィクションでは、島袋投手の中大2年時までを綴っています。
「甲子園で春夏連覇した左腕」
「琉球トルネード」
島袋投手への注目は、中大へ入学後も続きました。
島袋投手は、当時、こう漏らしています。
「正直、あまり注目してほしくなかった」
「自分の力よりも周りの期待のほうが上回っていて、やりにくい」
1年生が「戦国」といわれる東都リーグの打者を抑えるーーそれは、並大抵のことじゃありません。
でも、まわりは「勝って当然」「抑えて当たり前」と期待する。
ちょっと打たれたら、「大学の洗礼」と書かれてしまうのです。
そりゃあ、重圧でしかないですよね。
期待の代償
島袋投手の1年目は、3勝7敗という成績でした。
「こんなはずじゃないという思いが強かった」
島袋投手はそう言います。
2年春。島袋投手は開幕の東洋大1回戦で延長15回、226球を投げ抜き、21奪三振で勝利投手になりました。
その後、東洋大3回戦と日大1回戦でも勝ち、3連勝。
ところが、ここで彼は左ヒジを痛め、戦線を離脱してしまいます。
実は、東洋大1回戦の試合中、秋田秀幸監督は交代を打診していました。
島袋投手が続投を志願したのです。
中1日で迎えた東洋大3回戦も「行きたい」と答えて、マウンドに上がりました。
なぜ、そうしてしまったのか? 何がそうさせたのか?
それは、島袋投手の心に、1年目の「こんなはずじゃない」という思いがあったからです。
島袋投手は、こう言っていました。
「『もうアイツはダメだろう』という声が聞こえてきた。『まだ勝てるんだ』というところを見せたかった。前年の評価を覆してやろうという気持ちが強すぎて、自分にブレーキをかけるのがもったいなかった」
なんてことだ……。まわりの過度な期待がなければ、こんなことにはなっていなかったのかもしれないじゃないのか。誰のせいでもないかもしれない。でも……。
この話を聞いたとき、僕はそう思いました。
島袋投手に「もし、春夏連覇していなかったら、もう少し楽だったとは思わない?」と訊きました。
答えは、「それは考えていない」でした。
彼の覚悟に、僕は凄みを感じました。
そして、この短編をこう締めくくりました。
「これまではモヤがかかったような、スッキリしない状態だったかもしれない。しかし、島袋は今、自分の手でそれを払いのけようとしている。そのときが来るまで、少し待とうではないか」
僕なりのエールでした。
本書では、島袋投手のほかにも、甲子園優勝投手たちのその後が描かれています。
彼らの物語を通して、高校野球の素晴らしさ、人生の奥深さを感じてください。
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