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【小説】『古城屋敷の奇妙な一日 ~侵入者たちの悲運』 (📖「それぞれのパンデミック」第三話 :前半からの本文切り抜き紹介)


【2021年9月初旬】

 この世の終わりとまではいかず、人類は相変わらずこの母なる星を汚染し続けていたが、外の世界は、まだまだ流行病を巡る騒動に揺れていて、次々に発生する変異種に振り回される一進一退の日々だった。その混乱に乗じてここぞとばかりに、独裁政権が息を吹き返したり、人民の自由と権利が国家権力によって脅かされるなど、世界中が短期間で激変し、不穏な時代が幕開けたというのに、この場は驚くほどに平穏だった。

 ……皮肉なものだ。ほんの数年前までは、周りの世界がどんなに順調で平穏でも、自分たち二人に限っては休まる暇がなく、常に動乱のただ中にある人生だったというのに。すべてが引っ繰り返って、反転してしまったかのよう。

 もちろん、外界の問題と全くの無縁でいるわけではない。ウィルス問題をきっかけに様々な形で分断が起きている今、特定の組織や個人から悪質な脅迫を受け、攻撃の的にされる企業や施設が増えてきたため、Jの運営する警備会社にも、その手のことに対処してほしいとの依頼が殺到している。状況が状況なので、人手不足にあえぐBND当局(ドイツ連邦情報局)からの協力要請も、再三届いている。だがかつてとは違い、今はこちらに選択権があって、受けるも断るも自由なのだ。

 背中にJの確かな鼓動と温もりを感じながら、憲玲ケンレイは今、過去に経験のないほど穏やかな気分だった。仕事の面では今まで以上に大変だし、明日には失われるかもしれない平穏だが、少なくとも今この瞬間は、他の誰にも侵害されることなく二人きりで過ごせる充実した時間がある。

 彼の心地よい腕の中で、彼女はやがて、その流れるような黒い瞳をそっと閉じた。

       *  *

 同月、いよいよ終息かと錯覚するほど新規感染者数が減少し、Jのワクチンの副反応もすっかりおさまって、平常通りの日常が戻ってきた頃のことだった。近隣の家々に明かりが灯り始める夕暮れ時、警備システムの警告音が鳴ったので、二階の一室で蔵書の整理をしていたJと憲玲は、その手をピタリと止めて顔を見合わせた。監視カメラで外を確かめると、見知らぬ二人組の男の姿があった。二人とも似たようなミリタリー系の古着で短髪なのだが、少し年上と見られる背の低い方は黒髪、背の高い方は赤毛だ。その背後には、彼らのものと思わしき車もある。

「ここだ。こりゃ噂通りの大豪邸だな。殆ど城の域だ」

「でもよ、兄貴。城は城でも、出るものが出そうな古城って感じだぜ。ちょっと不気味というか、さながら幽霊屋敷だ」

 一般家庭の警報装置というと、大抵は屋内に侵入された時に作動するタイプで、玄関先のカメラ映像も未だ無音で不鮮明なものが多い。まさか玄関扉からそこそこ距離がある門の手前にまでセンサーが張り巡らされ、ポストの隅に仕込まれた高性能カメラで、音声まで含めて監視・撮影されていようとは、彼等には知る由もないことだった。兄弟と見られるその二人組の白人男性は、無駄口を叩きながら黒ずんだ濃緑の格子門を開き、庭石の上を歩いてくるところだった。裏口を探すでもなく、堂々と正面玄関を目指して。

「くだらないことを言うんじゃねぇよ。お前、ひょっとしてビビってんのか?」

「まさか。ただ現実的な怖さはあるかもな。こんな一等地にこんな屋敷を持っている奴といったら、きっとマフィアか何かのヤバい奴だ」

「安心しな。さすがの俺も、わざわざそんな屋敷を狙ったりはしない。聞くところによると、ここは大富豪から巨万の富を相続したボン、、ボン、、の持ち家で、換金すれば相当な額になる美術品がゴロゴロと眠っているんだそうだ。これでも数ある別荘の一つにすぎないから、普段は無人だそうだがな。贅沢ぜいたくなこった」

「なるほど。あちこちで経済活動が麻痺まひして、企業の倒産が相次いでいるこんなひどいご時世に、悠々自適にいくつもの別荘を所有しているような恵まれたヤツから、少しぐらい富をかすめ取ってやったとしても、何責められる筋合いはないよな。温室育ちで世間知らずなお坊ちゃんには、むしろいい教育だ、ってか?」

 言いながら二人は、軽薄な笑みを浮かべてニヤニヤとしていた。

 どうやら噂に色々と尾ひれがついて、誇張こちょうどころかデタラメの域にまで達していたらしい。Jは映像の中のそんな二人を、白けた目つきで眺めていた。自分や憲玲の素性を隠し通す上では、事実からかけ離れた的外れな噂が独り歩きするのは、むしろ好都合と言えるのだが……。

「飛んで火に入る夏の虫だな」

 Jが不意にそう呟いて、何故だかリモコンで警報装置を解除するのを見て、憲玲は目を疑った。

「何してるの? せっかくあなたの会社で導入した最新の警報装置を設置したばかりだっていうのに」

「だからこそ、だ」
 腰に手を当てて映像を凝視したまま、Jは言った。

「ほんの一日でも張り込みをして確認すれば、ここが空き家でないことぐらいすぐにわかるだろうに、侵入先の下調べすらせずに乗り込んでくるあんな素人連中では、玄関の扉一つ突破できないだろう? うちの警備システムは、当局みたいな高度な技術を持った連中をも阻むよう、鉄壁のディフェンスを構築しているからな」

 聞けば聞くほどますます理解できなくなって、憲玲は眉をひそめて彼の表情を確かめた。手元の操作一つで、玄関のドアノブに電流を流して追い払うこともできる便利なシステムだというのに、彼はあえてそれをオフにしたのだ。

 もちろん、侵入防止に特化したそのシステム一つに頼り切っているわけではなく、押し入られたあとのことも想定して備えは成してある。壁や床下やベッドの下など、屋敷の中にも複数箇所、武器弾薬を埋め込んであるし、いざというとき侵入者から身を隠すための隠し扉も存在する。その隠し扉から地下に避難すれば、パニックルーム風のシェルターもあるので、身を護るすべはいくらでもある。

 とは言え──。

「わざわざ泥棒を招き入れるつもり? 一体何を考えているの?」

 Jはその鋭い翡翠ひすい色の瞳で彼女を見やり、意味深にニヤリと笑みを浮かべた。
「ちょっとあいつ等とたわむれてくる。運動不足解消にちょうどいい屋内スポーツだ」

 憲玲はそれには、唖然としてしまった。
「う、運動不足って、毎日あんなに筋トレしているのに?」

 この屋敷の中には、Jが改装して各種トレーニング機器を設置したスポーツジムのような一室があり、彼は事実、暇さえあればそこで身体を鍛えて暮らしている。にも拘わらず、彼は物足りない様子でこう答えたのだ。

「あんな無酸素運動ばかりではな……。会社のトレーニングルームに行けば手合わせの相手にも事欠かないんだが、今はウィルス問題のせいで、そういうことも難しくなっている。だからといってまさか、数年前まで死んだようにくたばっていたお前に、俺の相手をさせるわけにもいかないだろう」

 ワクチンの普及や検査態勢の充実により、イベントの類いが再開されたり、観光目的の渡航も可能になるなど、このところはかなり状況が上向いてきているが、いつまたリバウンドするとも知れないので、感染症対策のための世の規制はまだ完全にはなくすことができず、パンデミック以前に比べると、行動範囲は狭いままだ。だから確かに、彼のような人物にとっては何かと手持ち無沙汰な状況で、フラストレーションを解消したい気持ちもわからなくはない。

 しかし、だからといって、都合のいい対戦相手、いやサンドバッグとして、わざわざ招き入れられようとしているコソ泥たちの方が、憲玲には少し気の毒に思えてきた。そもそも彼等は、留守を狙うつもりでやってきた空き巣の類いだ。よもや教官職に就いていたこともある凄腕の元情報局員と鉢合わせしようとは、予想だにしていないだろう。

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