未詳事件 #03 はか
先日、きゅうりを自前の味噌ダレに絡めてかじっていた時のことだ。ふと、この野菜の表記について興味を覚えた。瑞々しさとパキパキとした食感の新鮮さに反し、その過去には古漬けのような滋味が秘されていると思ったからだ。
きゅうりとは、ご存知のごとく「胡瓜」と書く(「黄瓜」とも表記するが、いまは「胡瓜」で話を続けたい)。「瓜(うり)」の前に付された「胡」に気づいていても、調べる人はそう多くはない、のではないか、と思ったりする。
この「胡」は、元来中華文化から見た異民族全般を指し、後には北方民族の「匈奴」に専ら用いられた。解字は、「音符の古は、ぼんやりしている(模糊)なさまを表す擬態語」、月は「ぼんやりしてよくわからない、はるかに遠いえびすの地の意味を表す」とされる。
ぼくは初見であるが、辞典には「胡説」などという語句が見え、その意は「でたらめの議論」と言うのだから、「胡」とは自文化の眼には了解されぬ者たちやその文化を広く指していたのだろう。
ところで、この「きゅうり」がはるかユーラシア大陸から入る前のこと。日本で「瓜」は縄文時代から食していた。瓜は瓜でも正確には「真桑瓜(まくわうり)」のことを言うようだ。日本人との付き合いの長さは、日本語にさまざまな痕跡を残していることからそれと知れる。
例えば、今はもう使うことはないだろうけれど、昔は細面で肌白い(とくに女性の)顔を「うりざね顔」と言った。漢字では「瓜実」と表記する。つまり、「瓜の実(たね)」のような顔というわけだ。と、言われても要領を得ないのは、真桑瓜が種も含めて、もはやそれほど近しい存在ではないからだろう。
仲間(それこそ先の胡瓜)や「スイカ(西瓜)」、それに「苦瓜(ゴーヤー)」はよく知るところだ。メロンだって馴染み深い。それに対してプレーンの「瓜」は、まずイメージがわかない、のではないだろうか。なんで昔の人は、今では想像だにできない植物、さらにその種なんかを女性の顔の表現に使ったのか。なんて問いたくなる(ならないか)。
この疑問は、さかさまな論理に基づいた錯誤であると言いたい。本当のところは、今の人から、今の(食)生活から「瓜」が遠ざかったので、もはや頭に思い浮かべられない。だから、問うべきは「なぜ瓜を用いたか」ではなく「なぜプレーンの瓜は姿を消したのか」である(実のところ、「姿を消した」訳ではなく、汎用されなくなっただけの話だが)。
これに答えるのは、容易いようで難しい。同じきゅうりの仲間「Cucumis属」の上級階層に座するメロンが交配を得て斜め上に進み、これに取って代わったからか、他の甘味の強い水菓子が居場所を奪ったからか、はたまた別の要因があるのか。少なくとも、きゅうりほどにはポピュラーでなくなったのは事実である。
しかし、である、瓜を見かけなくなっても、瓜を用いた表現は日本語に残されてきた。もっとも卑近な例だと、「うり二つ」の「瓜」が挙げられるだろう。他の言語の「とてもよく似ている」の表現を並べれば、かつての瓜の生活密着度が感じられよう。
英語:alike two peas in a pod「鍋のふた粒の豆みたいに」
ドイツ語:das sich gleicht wie ein Ei dem anderen「一つの卵がべつのに似ているみたいに」
フランス語:comme deux gouttes d’eau「水二滴みたいに」
それぞれ、「豆」「卵」「水」といった非常に生活に根ざした語句が「そっくり」に用いられている。いや、繰り返しになるが、かつては「瓜」もこれらの物と同様、日本人にとって非常に近しかったのだ。ただ、表現だけが、いわば冷凍保存されて現在に至ったのだ。そして、その最たる表現が「はか」である、とぼくは信じている。
漢字では(いや、そもそもが漢字ありきなのだが)「破瓜」と表記する。この語句は日本発祥(「瓜二つ」は日本固有であり、中国では「一模一様」と言う)ではなく、それこそ五「胡」十六国の東晋時代(311年〜416年)に記録されているくらい古い。
現在、この表現は元来の意味である「八に割る」から、文字遊びの一種として、女性は16歳を男性は64歳を指す。きわめてニュートラルな表現になっているが、かつては日本の性教育や性愛のモラルにまつわる、きわめて緊張感を強いる言葉であった。
一例をあげよう。大正8年に出版された『処女と青年へ 結婚後の心得』(白羊社)には、次のような記述が見える。
さて破瓜期とは、何いうことを申しますか。これは難しく言へば春機発動期のことでありまして、単に発情期ともいへば、又は戀愛期或いは妙齢期ともいって居ります。(中略)語を換えて之を申しますならば、無邪気にして、未だ色情の何ものたるかを、解せざりし少女が、初めて物のあはれというものを、覚え初めて、異性を戀ふようになるのであります。(16ページ)
続く箇所から「生殖器の発達」、「性欲の発動」などの文言を引かなくとも、現在の「思春期」の代わりに用いられていた表現であることは分かるだろう。16歳の「処女」をもって思春期の代表とし「性的感情」の発露(とその害悪)を説くのは、完全にジェンダーバイアスの産物である。破瓜が「処女の喪失」として使われた過去も相まって、このような男根的パラノイアになったのは間違いない。
ともあれ、この「破瓜」はもはや時代錯誤である、そう言えばそうなるだろうが、実は今でも現代日本で使われているとしたらどうだろう。その領域は精神医学、かつて「精神分裂病」とそれ自体分裂気味の堕名が与えられた統合失調症(Schizophrenia)の領域である。
現在「破瓜型」と呼ばれる「破瓜病(Hebephrenic)」は、19世紀末まで別の病だと考えられてきた。それが、E. クレペリンによって「早発性痴呆(Dementia praecox)」として総括された。そしてここから紆余曲折を経て、Schizophreniaという造語が生まれる。それはそれとして、「破瓜型」がなぜ破瓜なのかと言えば、上述の事情が絡んでいる。
英語のHebephrenicは、古代ギリシア語で「若さ・美しさ」を意味する「hḗbē」と、「精神」を意味する「phrḗn」が合わさってできた。思春期に発症するからだが、病が若く美しい魂を蝕むからか、あるいは、若く美しい魂に時として伴うノイズだと意味付けようとしたのか、不勉強のため即断はできない。だが、少なくとも「破瓜」が与えるイメージと異なることは了解されよう。「精神分裂病」という、患者にとっては名も実に劣らず苦しみを与える病に、この「破瓜」なる語句も少しく寄与したと思うのは、ぼくだけだろうか。
余談になるが、お隣台湾では、未だに「瓜」は現役よろしく活躍している。「木瓜(マンゴー)」は、スィーツの女王かつオールラウンダーとして。「地瓜(さつまいも)」は、日本と同じく石で焙られたり、マッシュされバターと混ぜられて焼かれたりする。もはや「瓜」からは遠ざかっているが、漢字表記さえなくなりつつある日本よりは、いや、瓜が言語表現や、精神医学に揺蕩う日本よりは、よほど生活に根ざしている、と言うべきかもしれない。