食養料理教室に通いはじめた
出産を3回してみて、ジャンクフードばかり食べていた私の食生活を、ついにガラリと変えようと思えた。
一度目の出産は25歳。総合病院で、2週間近くの予定日の遅れで、311の直後の混乱の中、促進剤を使って出産。促進剤点滴投与から2時間弱のスピードであった。その後、肥立も育児も、思い出せないくらいしんどい日々を3年以上送りつづけた。
何も誰も教えてくれない。
まず妊娠期の過ごし方。総合病院では一切のアドバイスはなかった。出産のことも。産後の日々の細かいケアも。育児やつながりも。総合病院ではなかなか作れなかった。総合病院の出産の良いところは、ただ一つだけ。リスク高い赤ちゃんや妊婦さんの場合、処置がすぐにできること。ただそれだけと、私は思った。
二度目の出産。30歳。一人目の育児でうつ病になった私は、二人目が間違ってもできないようにピルを摂取していた。そして一人目が5歳になり、少し落ち着いてきた頃、次男に恵まれた。夫が東京で単身赴任中だったのもあり、実家のある東京での里帰り出産。それまで、前回のような子を生み出している感覚が皆無な出産は嫌だし、その後の育児もうまくいくとは全く思えなかった。そして、どんな出産の方法があるのか、色々、映画、本で学んだ。
「分娩台よ、さようなら」「「幸せなお産」が日本を変える」など
そして、東京では5件くらい助産院を見学へ行き、その上で決めた。どこの助産所でも産んでみたいなーと思えた。私が選んだのは、ファン助産院。後で知ったが、とても有名なとこらしい。次男を取り上げてくれたのも、北海道の天使大学?のサエちゃん、という私と同名の可愛い研修中の学生さんであった。だから、少し気を使ったけど‥でもその余裕が私にはあった。一人で激しい陣痛の中タクシーつかまえて、助産院に向かえたし、ついて2時間もしない中、横向きに寝た状態で出産した。とても気持ちよかった。夫すらいなかったが、自分で出産を撮影した。そして、夫と長男が来るまで、臍の緒を切らずに待った(笑)そして、ここには書けない素敵なことを経験した。生まれてすぐおっぱいをくわえさせて、一人目は痛みと辛さしかなかった母乳が、出てないけど、とても幸せに感じれた。総合病院では、お昼に生まれて、初めてお乳を咥えさせたのは19時だったと覚えている。なんなんでしょうね。人を産んでいる現場で人と人の心が繋がるような交流がほぼなかった。長男を取り上げくれた助産師さんも、出産翌日に退職していた。分娩台で会ったきり、一度も顔を見せずに。。。そういう小さなことの積み重ねが、その後の育児にどのくらい悪影響があるか、わからないのか、無関心なのか、総合病院だからなのか。それが、そこに関わった親や子の、色んな犯罪に繋がるくらいのことだと私は思っている。
3人目の出産。34歳。
里帰りは楽でもあり反面、親との仲が悪くなったりもするので、今度は当時住んでいた大阪で産むことにした。たまたま検索して出てきた「motherゆり助産所」。大阪市に住んでいて、ここで産まないなんて、1等の宝くじをドブに捨てるくらい勿体無いことであるくらいおすすめ。全ての妊婦さんが、こういった考えの助産師さんに出会える世の中になってほしい。本当に色々学ばしてもらった。例えば、夫婦関係。愚痴りたいような夫は私自身が育て上げているということ。妊娠中はマックス6キロしか増やさない。毎日食べているものが大切で、2時間歩くことが大事。(これは次男出産時も多少実践したが、食事記録ノートはここが初!毎回赤ペンでチェックが入る。)産後1か月、動物性タンパク質(お肉!)とお菓子を食べないと、めちゃくちゃ身体が楽だった。入院の間に、体重は元に戻るし、力まなくても、とても良い便が便座に座った瞬間、自動で出てくれる。体の中を大掃除してくれているみたいな入院。そして何よりもその後の助産師さんとのつながりと、産後ママたちとのつながり「ゆりね」。
ラジオまでつくって有志でやっていた。
それ以外にも、motehrゆりの荻田先生には、いかに自分の心身を整える方法があるのか、色んな術を教わったと思う。
そして、この13年くらいの経験を経て、やっと正食を学んで健やかに生きていくための術を身につけようと、決心したのであります。私の先生としてTHE PINK ELEPHANTのチカ先生。同い年とは思えないようなマイルドな言動の中にしっかり軸のある考え方、生き方。お会いするだけで刺激になり、私の原動力になり、勉強になる。私もそんな人を目指したい。