思いやり
小さい頃から、
思いやりを持ちましょう。
という教育を受けて育ってきたと思う。
そもそも、
思いやりって何なんだろうか?
困っている人を助けること?
誰かの為に何かができること?
相手の気持ちを考えて接すること?
私は、つい空気を読み、相手に悪い状況にならないように考えて行動しがちだった。
それは、自分を
思いやりのある人間
と表現していいのだろうか?
人の意見に反対するのが苦手だった。
反対したら、相手は嫌な気持ちになるだろうな、と考えてしまうことが多かった。
これも、
"相手の気持ちを考えて接する"
に値するが、これは思いやりなのか。
違う。
これは本当に相手の事を考えているとは言えないと思う。
相手を思って、それが相手の為にいいと思う事を伝えられること。
それは、思いやりと言えるのではないだろうか。
私の意見に反対しないと言うのは、思いやりではない。
その意見が相手にとって良くないものならば、相手が嫌な思いをしても、反対の意見を言うのがきっと本当の思いやり。
私は、それができない人だった。
海外に住み始め、この自己主張の強い人で溢れる国の社会に揉まれ、
やっと少し意見を言うことができるようになって来たが。
つい、空気を読んだり、状況を読んで、自分が大変な仕事を抱えがちだった。
前にも書いたけれど、
他人が嫌がることをやると褒めてもらえる
という承認欲求が、私は強かったのだと思う。
残業や追加のシフトを断れずにやっていた時期があった。
困っているマネージャーを見ると自分がやってあげないと、と思ってしまうのである。
しかし、
それをやりすぎて、体を壊した。
マネージャーに対して思いやりがあったのかもしれないけど、
自分に対する思いやりが欠けていたのだ。
我ながら、なんて不器用な生き方をしているのかと思う。
相手を思いやるのと同様に、自分の事も思いやらないと、自分が壊れてしまうということを、つくづく実感したのであった。
自分を犠牲にすることなく、相手を思って接する事ができるというのが、理想なのかもしれない。
私の場合、相手を思ってやっている事と、嫌われるのが怖くてやっていることが、ごちゃまぜになっていたように思う。
未だに、嫌われる事を恐れて自分を犠牲にしがちである。
それを段々と自分軸にしようと努力しているところである。
今はまだ精神が不安定なので、自分を思いやる事を1番に考えていきたい。
そして、自分を犠牲にせず、相手を思って行動できるようになりたい。
そう思っている。
なんだか、まとまりのない文になってしまったが、
自分の中で、思いやってやったことが、自分にダメージとなって返ってきたこともあり、
なんだか、この境界線が難しいなと思って、noteに綴ってみました。