父のミニトマト
うちのトマトは絶品だ。店で売っているトマトとはまた違う美味さがあって、実に格別なのだ。
私はトマトが大好きである。だから、勿論売っているトマトも美味しいし、大好きだ。しかし、再度声を大にして言いたい。
うちの父が作るトマトは絶品だ。
いや、正確に言うと私にとっては絶品、別格なのだ。
うちのトマトは不揃いで色も薄い。父はトマトが熟す前に収穫する。まさにこれが絶品の理由だ。
私はどちらかというと完熟した真っ赤なトマトより、青みがかった色素の薄いオレンジ色ぐらいのトマトが大好きなのである。うちのトマトがまさにそれなのである。私はなかでも、格別ミニトマトが大好きだ。その青みがかったミニトマトを食べると、何とも言えない幸福感に包まれる。売っているトマトでは、こうはならない。私の好みの問題だろうが、私は青みがかったトマトが本当に大好物なのである。もしかしたら、青いトマトが一番好きなのかもしれないと思う事もある。
色は薄く熟す前なのに、味は奥深くて濃いのだ。旨味があるというのだろうか。全く味がぼやけていない。むしろ鮮明だ。これこそ、私が求めているトマトの味だ。と、叫びたくなるような旨味が凝縮したトマトなのだ。
勘違いしないでいただきたいのは、店で売っている真っ赤なミニトマトも凄く美味しいし、大好きだという事だ。そして、うちのトマトは別格だという話である。
うちのミニトマトなら、軽く100個食べれる自信がある。たぶん1時間もかからないだろう。朝、昼、晩に分けて食べたら、約30個ずつだ。鼻で笑ってしまうくらい余裕だ。しかし、貴重なうちのミニトマトだ。そんな事をしたら、実にもったいない。それに収穫できる数も限られている。うちのミニトマトから得られる幸福の数も限られているのだ。むやみやたらに摂取するのは、それこそ幸福感を薄めてしまう事に成りかねない。
やはり、うちのミニトマトはじっくりゆっくり味わってこそだ。幸福の実も味わい過ぎれば、ただの実に成り果ててしまう。それは実に悲しい。
私は父が作ったミニトマトで幸福になれるこの事実を密かに喜んでいる。
正直に言おう。私は父が苦手である。特に泥酔した父には辟易している。嫌悪感が半端ない。
勿論、感謝はしている。でも一度抱いた苦手意識は、なかなか克服できるものではない。
実に申し訳なく、情けない事なのだが……。
言うなれば、遅すぎる反抗期なのである。
四十路を過ぎたおばさんが、女子中学生の思考回路で父親を毛嫌いしているのだ。
父と会話するといつも不愉快な気分になる。実に不快なのだ。できれば会話したくないし、できれば近寄りたくない。
そう感じてしまう事に多少なりとも罪悪感はある。
だからこそ、そんな父が作るミニトマトで爽快な気分になり、幸福になれる事が格別に嬉しいのだ。
何度でも言おう。
父が作るミニトマトは絶品である。
そして、そのミニトマトを食べて味わう幸福もまた、格別にして絶品なのだ。