
#52「冷笑主義」
今、東京六大学の早慶戦が行われる神宮球場のスタンドから暇を持て余してこうしてnoteを書いている。試合開始までまだ2時間もある。少し早く着き過ぎてしまった。
前にも書いたことがあるかもしれないが、高校生のころから早慶に憧れがあった自分は、見事にその両方に落ちて地方の大学へと進学した。
大学時代は自分の大学の学祭には行かなくても早稲田祭には行っていたし、就職とともに上京してからもそれは続いている。
学生時代から当然一軍の人間ではなかったが、あの華やかな雰囲気にどこか憧れがあったのだろう。ただ、決してその輪の中にいたいわけではない。あの雰囲気を側から見て冷静な自分がいる。もしかしたらどこかで鼻で笑っているのかもしれない。
そんな学歴厨エピソードを聞いて、職場の先輩(早稲田卒)は自分を奇人扱いする。決してそれが嫌ではない。
ポエムなんて書いてみましたが
最近関わっている新規事業開発で、その事業領域では第一線を行っているとある会社の人と一緒にミーティングを行なっている。
その方が先日企画案を持ってきてくれたのだが、それを披露する際にこんなことを言った。
「ポエムなんて書いてみましたが、、」
いつも商材の冒頭にメッセージを添えているらしい。
企画の意図やこちらが込めたい思いを端的に表していて、内容がすんなり入ってくる。
かつてはその会社のお客さんでもあった私だが、確かに言われてみればそんなポエムがあった気がする。しっかり目を通したことはなかったが…
私はこの「ポエムなんて書いてみましたが」というひとことが引っかかった。
「ポエムなんて」というのが自虐というか、「ポエム」が万人共通で嘲笑の対象物であるかのように聞こえたからだ。
気の赴くままに、割と不平不満ばかりになってはいるが、こうしてnoteにエッセイもどきを書いている自分にとっては、見過ごせない瞬間だった。
東京は冷たい街(のはず)
上京して2年が経った。
生まれ育った田舎町では考えられないほどに、東京の人たちは他人に興味がなく、必要以上に他人に干渉しない。
と思っていたが、最近はたして本当にそうなのか、よくわからなくなってきている。
週に1回ペースで訪れる近所の居酒屋では、常連のみなさんは他人の話を聞いてやさしく(?)ツッコんだり、時には真面目に悩み相談に乗ってくれる。
最近、教育や福祉関係の仕事もしていることから、そこで話すひとたちみなさんが「ひとのためによりよくしたい」という思いが必ずあって、そのやさしい人柄が滲み出まくっている。
どちらも大した話ではないが、時折こうした人のやさしさに触れると、東京も捨てたもんじゃないと思う。
じゃあ自分は人のやさしさを求めているのかというと決してそうではない。
みんなが自分に対してやさしかったら、逆に人間不信になってしまうだろう。
自分は何をしているのか
最近、今までの人生では考えられないくらい人との出会いを求めて行動している自分がいる。
別に深い意味はなく、新規事業開発や新たな可能性を模索する中で、避けては通れない道とも言える。
先日、グループ会社内で若手中心の懇親会なるものがあって、珍しく応募してみた。同じグループの中にいる会社であり、ある程度どんな職種の人たちかはわかっていたが、改めて直接話を聞いてみると、同じグループとはいえこんなにも仕事内容や働き方が違うのかと発見があった。
当然自分もその場で何者なのかを自己紹介しなければならない。
カタカナの部署名に食いついてもらった流れで、何をやっているのか簡潔に言い表したいのだが、いろいろやりすぎているからなのか、自信を持って語れるほどのことを成し遂げられていないからなのかわからないが、はっきりと答えられない。
これは最近よくあることで、名刺交換をする際や外部とのMTGで自分たちのことを紹介する際にも、自分やその周りはなにをやっているのかをどう説明して良いのかわからなくなります。
単純にやっていることが多岐に渡り、まだまだどれも手探りであること。
社内他部署のように、世間一般で認知されている名詞として語れないこと。
そして、新しい価値を創造すべくその手探りのものを磨き上げていかなければならないという使命感がある一方で、会社員として目先の売り上げも確保すべく、自分がやることではない気がすることにも時間を割かなければならないこと。
当然と言えばそれまでだが、なんだかもどかしくて、自分の中の爆弾が破裂しないように自分を誤魔化し続けている。
自分が何者でもないのに、謎の自信だけで自分をそれ以上に見せていける人間ならばこんな心配もないだろう。
自分がこの類の人間をどこかで馬鹿にしているが故に、自分を苦しめていまっていることに気づいた気がする。
セルフ冷笑主義のジレンマ
この気づきは、自分がこの社会全体が冷笑主義だと勝手に思っていただけで、実は自分の中だけの価値観なのかもしれないという、前向き(?)な発見と言えるのだろうか。
だからといって、その「セルフ冷笑主義」をやめればよいかというと、そうじゃない気がしてしまう。
他人をどこかで嘲笑うという行為自体は良くないと思うが、嘲笑う際に他人に着目できている観察力や、嘲笑うことで自分はこうなりたくないという反面教師が今の自分を作っているとも言える。
それを自分の中から捨ててしまう怖さもある。
勢いだけでこんな文章を書きはじめた割に、1週間もかかって自己満足のためにここまで仕上げて公開するところも含め、つくづく面倒なやつだと思う。
=============
2024.06.10 作成