【長編小説】走馬灯で会う日まで #9
お店を出ると、橋本さんとは駅前で別れた。
僕は、家に向かいながら、どうもこのまま家に帰りたくないような気持ちになっていた。さっき、橋本さんと話したことが尾を引いているのだろう。
飲み会自体は、楽しく終わった。それでも、どこかしこりが残っているような感じがした。もちろん、飲み足りないわけではない。いや、もしかすると飲み足りないだけなのかもしれない、とも思った。
家に帰る前に、どこか寄りたい気分ではあったが、どこに行くべきなのかがまったく分からず、一応、自動販売機でコーヒーを買って飲んでみたりしたが、落ち着かなさは変わらなかった。
結局、あきらめて家に帰ろうと思った時に、ふと、ビルの看板が目に留まった。
看板には、《朝日ビル》と書かれていた。
僕は、あることを思い出した。
鞄から手帳を取り出し、最後のページを開いた。
――仮面をつけたら外せない。朝日ビル地下二階で、
やはり、あの見覚えのないメモにも《朝日ビル》の文字があった。さらに、メモには《地下二階で、》と書いてある。
ビルは、三階建てでコンクリートの色そのままのよくあるビルという感じだった。壁には、何かの植物のつるがへばりついてた。窓は割れているものもあったりと、古さが感じられた。今は使っていないのかもしれない。
僕は、自分自身でも驚いてしまったのだが、あろうことか、ビルのドアの取っ手に手をかけたのだ。
普段だったら、偶然、見覚えのないメモに書かれている名前のビルを見つけたからといってノコノコと入ったりはしないだろう。しかし、この時はどうしてか、ビルに入ってみようかな、という気持ちになっていた。それは、さっきまでの落ち着かないような気分をどうにかしたかったというのもあるかもしれない。しかし、それ以外にも、僕を引き寄せる何かがあった。
ドアの取っ手を引いてみると、カチャリと音を立てて、ドアが開いた。
僕は、少し迷いながらもビルの中に脚を踏み入れた。
妙な気分だった。もちろん、多少の恐怖心はあった。しかし、それ以外にも、子どもの時分に押し入れの中に入った時のようにワクワクするような気持ちもあった。
手帳に書かれていた地下二階に行ってみようと思った。
どうせ何もないのだろうと思ってはいたが、この瞬間だけは、全てのことを忘れていられるような気がして、それがうれしくもあった。
電気のスイッチを押してみたがつかず、スマートフォンの明かりをつけた。
階段は入り口の近くにあり、すぐに見つかった。足元に気を付けながら、ゆっくりと階段を下りて行った。下に行けば行くほど暗くなっていく。地下一階を過ぎた後には、まるで缶詰の中にいるみたいに真っ暗になった。カビやほこりの臭いが鼻をついた。あまり長く留まると具合が悪くなってしまいそうな感じがした。ただ幸いなことに、ネズミやゴキブリといった生き物の気配はなかった。
地下二階に辿り着くまでに、十分ほどかかった。気を付けながらゆっくり歩いてきたせいだろう。階段が長かったわけではない。
ただ、この間にアルコールが覚めてきたのか、少し冷静になり、こんなところに来ていることが、恥ずかしいような、悪いことをしているような気持ちになってきていた。階段を下りている間に、地下二階に着いてみて通路への扉が閉じているようであれば、すぐに帰ろうと決め込んでいた。
しかし、扉は開かれていて、通路の先には、小さな電光掲示板のようなものが見えた。
近づいて見てみると、それは、町の喫茶店の前に置いてあるような看板で、《喫茶『論』》と書かれていた。電気は着いておらず、看板の脚にコンセントがグルグルと巻きつけられていた。また、その先には、喫茶店らしいドアがあった。木製で、ドアの上にはベルが付いている。
僕は、恐る恐るドアノブを握ると、ゆっくりと押してみた。
鍵はかかっておらず、カランコロン、と聞きなれたベルの音が、静かに鳴った。
お店の中は――お店と呼んで良いか分からないが――耳が痛くなるほど静かで、真っ暗だった。スマートフォンのライトで照らしてみると、そこそこの広さがあることが確認できた。丸いテーブルが四卓あり、そのテーブルごとに椅子が四脚あった。カウンターもあり、そこには五つ席があった。カウンターの奥には、サイフォンなどのコーヒーを入れる器具も置いてあった。
その光景は、あまりにも不思議なものだった。
外観からも分かるように、このビルは、たぶん誰にも使用されていない廃墟ビルだ。それも、最近の話ではないだろう。中を見てみるとずいぶん古いような感じがした。
それなのに、この喫茶店だけは、まるで今でも営業しているお店のようだった。
開店前の喫茶店、そんな感じだった。
僕は、思わずお店の中に、足を進めた。
店内は、廊下と比べると、カビやホコリの臭いが薄かった。
カウンターの席を見てみると、僕は驚いてしまった。席にホコリがついていなかったのだ。営業していないお店であれば、ホコリがいたるところに溜まって行くはずだ。
指で椅子の表面をなぞってみたが、やはり、指にはホコリはついていなかった。
まだ営業しているのか?
一瞬、そんな考えがよぎったが、すぐに、そんなわけがないかとも思った。
こんな古ぼけたビルの地下で、営業ができるわけながない。それに、このビルには、この喫茶店以外には、お店も会社も何も入っていないのだから。
きっと、このビルが閉まると同時に、喫茶店も閉店してそのままになっているのだろうと想像した。
しかし、見れば見るほど不思議ではあった。
明日にでも営業を再開できるのではないかと思えるような状態だったのだ。
カウンターの中を覗いてみようと思い、カウンターに近づこうとしたその時だった。
遠くの方から音が聞こえた。
足音。
一人分ではない。
二人分、あるいは、三人。
コツコツコツ、と靴と床が合わさる音が聞こえる。
その音はどんどん大きくなっていく。
まさか、と僕は思った。
誰かがこちらに向かってきている?
僕はまっさきに自分の耳を疑った。誰が、自分以外の誰が、こんな廃墟ビルに脚を運ぶのか? よほどの変わりものか、あるいは、怪しい集団か。それともこの喫茶店の店主か。
しかし、それが気のせいではないことを、どんどんと大きくなっていく足音が、物語っていた。
さらには別の音も聞こえてきた。
話し声だった。
急に怖くなり、僕は、慌ててカウンターの内側にしゃがみ込んだ。
その瞬間に、カランコロンと、ドアの開く音がした。
「しかし、すごいなこれは。立派な喫茶店だ」
「どうやって、これだけのものを集めたのかな」
誰かの話し声が聞こえた。
どうやら、二人いるみたいだ。声は、酒とたばこで焼けたみたいにしゃがれた声と甲高い声。どちらも男の声だった。
「だけど、なんで俺たちがこんな時間に見に来なくちゃいけないんだよ」
高い声が言った。
「まあな」
しゃがれ声が返事をする。
「面倒くさいよ」
「そう言うなよ」
「今日は、早く寝たかったんだけどな」
「仕事だからな……。そう言うもんだろ」
「そうかもしれないけどさ……。まったく、いったい誰だよ。こんなことしたのは? 仕事を増やすなっつうの」
男たちは、店内を物色しながら見回っているようだった。男たちの持っていた懐中電灯の光がまるで獲物を狙っているかのようにあちこちに飛び回っている。
僕は、自分の存在を悟られないように、祈りながら、息を止め、音一つ出ないように、全身に力を入れて、体を固めていた。
「今何時だ?」
高い声が言った。
「さあね。十二時くらいかな」
「もう十二時か……。早く帰ってビールでも飲みたいな」
「帰る前に、何か手がかりを見つけないとな」
「手がかりって?」
「この店をつくった奴が誰かって話だよ」
「誰かって、そんなの決まってるだろ?」
「決まってはないだろ?」
「いや、決まってるよ。こんなことするのはアイツしかいないよ。どうせ『西田』の仕業だろ?」
僕は、彼の言葉に反応した。今、あの高い声の男が「西田」と言った。なんのことはない、同姓の誰かの話をしているのだろうとは思う。しかしそれでも、僕はどうしてか得体のしれない二人に興味を持ち始めていた。
「名前を言うな。分かっているだろ?」
しゃがれ声が言った。
「いいだろ? 誰が聞いているわけじゃないし」
「規則は、規則だ。誰が聞いていようがいまいが関係ない」
「堅いんだよ。まったく。もう少し気を抜けよ。じゃないと息詰まっちゃうよ」
「お前は、緩過ぎるんだよ」
僕は、二人の話し声を聞きながら、ある欲求が自分の中でブクブクと大きくなっていくのを感じていた。
あの二人が一体どんな人物なのか、見てみたい……。
そして僕は、その欲求の通りに動いた。
音を立てないように、ゆっくりとカウンターの端から顔を出し、二人の様子を覗いてみた。
暗い店内の中で、はっきりとは見えなかったが、二人の男は、スーツを着ているようだった。
僕は、音を立てないようにゆっくりと、顔が見える位置まで、さらに身を乗り出した。
二人の顔を見た時、僕は思わず声を出しそうになり、慌てて口を塞いだ。
動悸が激しくなる。
あれは、なんだ?
頭の中には疑問符が無数に湧き出てきた。
懐中電灯以外の光がない暗い部屋の中で、まるで蛍光色のおもちゃのように、二人の顔だけが浮き出て見えた。
二人は、白い仮面をつけていたのだ。
ペンキで塗ったように真っ白で、目の下には、黄色い隈があり、頬にはそばかすのようなものがあった。
その仮面は、まるで夜空に浮かぶ月のように、ぼんやりとした光を放っていた。
もはや、僕の脳は全く機能していなかった。どんどん湧き出てくる疑問符で頭ははち切れそうだった。
自分が目にしているのがいったい何なのか、まったく理解できなかった。
動悸は極限まで激しくなっていた。
「なあ」
しゃがれ声が言った。
「なんだよ?」
「なんか……さっきから、変な音しないか?」
「え?」
僕の体は硬直した。
気付かれたのか?
冷静に考えれば、仮面をつけた男二人が危険人物と決まったわけでない。しかし、あんな仮面をつけて、こんな廃墟ビルに来ている時点で、まともではないはずだ。
ましてやこの時の僕には、何も考える余裕はなかった。ただ、息を殺して、体を硬直させていることしかできなかった。
「なんか、息遣いみたいな音がするな」
しゃがれ声が言った。
「息遣い? ネズミじゃねえの」
「いや、なんか変だな」
カウンター越しでも、懐中電灯の光がこちらを指しているのが分かる。僕は、カウンターに背を向ける形で固まっていた。
「なんもいないだろ? いいから、もう帰ろうぜ。何も見つからないしさ」
「ちょっと静かにしろ」
しゃがれ声がそう言うと、喫茶店の中はまるで、深海のように静まり返った。
僕は、息を止めた。
どんな音も許されない時間が数分続いた。
その後に、高い声の男が言った。
「なんもいねえよ。いいから、帰ろう」
「ああ、そうだな」
「もしかしてお前、俺を怖がらそうとしたのか?」
「いや、違うよ」
「言っておくけど、俺、幽霊とか平気だから」
「ああ、そう」
「信じてねえのか?」
「いや、信じるよ」
二人は店を出て行った。
カランカランとドアが閉まる音を確認して、僕は大きく息を吐いた。
息を止めていたのだ。
酸欠寸前だったのか、体が小刻みに震えていた。
しばらく、僕はその場でへたり込んでいた。五分か十分はそうしていたかもしれない。息が整って、ようやく立ち上がれるようになって、スマートフォンで時間を確認すると、深夜一時だった。
僕は、仮面の男たちがいないことを確認しながら、廃墟ビルから出た。
外の空気は、冷たく、少し湿っていて、まったく正常な空気だった。まるで脱獄に成功したみたいに空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
頭の中は、少しは冷静になったが、相変わらず疑問符はピンピン跳ね回っていた。
あの仮面の男たちはいったい何者なのか? なぜ廃墟ビルに喫茶店があったのか? 仮面の男たちがなぜ喫茶店を見に来ていたのか?
そして、もう一つ気になっていることがあった。
廃墟ビルの中の喫茶店。まさか、営業しているわけがない。なのに、カウンターにしゃがみ込んだ時、そこでは確かにコーヒーの香りがしていた。