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【長編小説】走馬灯で会う日まで #26

 初めてのことだった。

 次の日、僕は、仕事を休んだ。

 ただの二日酔いかもしれないが、朝起きた時に、体が動かなくなっていたのだ。

「無理しないで。辛いときは全然休んでいいから。何かあったら、また連絡して」と飯田さんは電話口で言った。

 飯田さんは、僕の状況なんかも理解しているのかもしれない。飯田さんの立場にしてみたら、やりづらいだろうな、と思った。

 十年以上も勤務してきた三十過ぎの社員を差し置いて、アルバイトだった自分が店長に選ばれたのだから。やりづらいに決まっている。

 僕の心の中は、何よりも「恥ずかしい」という感情で満たされていた。

 どこにでもあるフランチャイズの喫茶店なんかの店長になれなかったというだけで、こんなにもショックを受けている自分が恥ずかしかったのだ。

 考えてみれば、飯田さんが店長に選ばれたことはしごく当然のことだと思う。

 飯田さんは、僕なんかよりも、仕事ができるし、人望も厚い。それに、自分だけでやろうとせず、全体を見て、動ける視野の広さも持っている。どう考えたって、飯田さんが適任だろう。本部の判断に、何も間違いはない。

 それなのに、長い間勤めていただけの自分が、ただ単に無為に時間を過ごしてきた自分が、ショックを受けているということが、ひたすら恥ずかしかった。

 ショックを受けるような資格が僕にはないはずだ。

 なのにどうして?

 僕の頭の中は、これ以上ないほどに、混乱し、ぐちゃぐちゃにかき回されていた。

 何度も、自分の中で納得できそうな言葉を並べて、ベッドから出ようと試みたが、体に力が入らないのだ。

 ベッドから起き上がっても、猛烈な不安に襲われ、ここにいることが間違っているような思いに駆られる。自分の寝室にいるはずなのに、これから出かける用事など何もないのに、「帰りたい」と思ってしまうのだ。

 僕は、寝室から出ることができず、一日中ベッドの中にいた。

 夜の九時ごろ、飯田さんからラインがあった。

 

 ――ほんとに無理しないで。西田君は有給がまだ一か月以上あるから、もし、辛かったら、しばらく休んでいいよ。

 

 僕は、飯田さんのこの言葉が、僕を気遣って言ってくれたものだということは、理解できたが、しかし、心のどこかでは、『来なくていいよ』と言われているのではないかと思ってしまった。また、そんなことを思ってしまう自分が嫌で仕方がなかった。

 自分でも自分の感情を制御できなくなっていた。

 結局、次の日も、その次の日も、僕は仕事を休んだ。

 僕は、ただベッドの中で、押しつぶされそうな思いに耐えていた。

 次第に僕は、「消えてなくなりたい」そう思うようになっていた。

 

 

 仕事を休み始めて三日目、ようやくベッドから出ることができた。

 ずっと飲まず食わずでいたので、体が衰弱しきっている。

 コップ一杯の水を飲んだ。のどがすごく乾いているはずなのに、水がなかなかのどを通っていかない。一杯の水を飲むことにさえ、ものすごい体力を使った。

 たったの三日。

 たったそれだけの時間で、僕は、地獄の淵に来てしまった。

 これからどうしていいかはわからない。何もできない。

 僕は、冷蔵庫を開けて、残っていた缶ビールを手に取った。ビールはキンキンに冷えていた。なのになぜか、まったく味がしなかった。

 ビールさえおいしくなくなってしまった。

 そんな僕の人生に、いったいなんの意味があるのだろうか?

 そんな考えが、頭を過ぎった時だった。

 ある記憶が蘇ってきた。

 兄の記憶だ。

 兄は、よくコーヒーを飲んでいた。

 父や母にコーヒーを入れるのは兄の仕事で、兄はコーヒーを入れるのが上手だった。

 インスタントコーヒーではなく、近所の喫茶店で買ってきた挽いた豆を使っていた。ペーパーフィルターにコーヒー粉を入れて、お湯を注ぐのだが、そこには一定のリズムがあった。

 最初に、少し注いで、数十秒待つ。それから、ゆっくりと円を描くようにお湯を注いでいく。兄の淹れてくれたコーヒーは、まだ子供だった僕でも飲めるほどにおいしかった。一口飲んだ時には、体中にコーヒーの香りが染み渡るような気がした。

 兄が、コーヒーについてよく話していたことがあった。

「コーヒーは、朝の始まりに飲む。昨日までの、嫌な気持ちや、これから始まることへの憂鬱な気持ちをリセットしてくれるんだ」

 兄のことを思い出しながら、気が付くと、僕は涙を流していた。

 それでようやく自覚した。

 仮面の男の言う通りだった。

 僕は、相当に弱っている。

 きっと、あれがきっかけだったんだ。

 張り詰めた糸が切れるように。膨れあがった風船がパンとはじけるように。

 僕は、ふと視界に入ってきたあるものに手を伸ばした。それは、ベッドわきのローテーブルに置きっぱなしにしていたもの。一枚の名刺。

 それから、スマートフォンを手に取り、電話を掛けた。

 三コールもしないうちに、相手は電話に出た。

「西田さんですね。待っていましたよ」

 仮面の男の声は、とても温かかった。


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