もし世界がプログラミングでできているなら
世界はプログラミングでできているかもしれない
3年前ぐらいからだろうかそんなことを考えるようになった
僕たちには見えないけれど、どこかにソースコードが書かれていて、最終的には0と1の羅列でこの世界はできているんじゃないかと。
その時は確か友人にこれおもしろいよと教えてもらって、動画を見ながらJava言語かなにかでゲームを作っていた。
そして本格的にプログラミングに携わることになって、Javaの本を読んでいるとやっぱりそんな気がした。いや少し改まった。
-世界はオブジェクト指向でできているかもしれない
オブジェクト指向の反対に手続き型プログラミングがあるんだけど、ここでおまえはこのようにこうしてそしたらつぎはこいつがこうして。。というようにあらかじめすべてが決められている運命論のような、世界はそんな感じではなくて
モノとしてわけておまえは最初はこんな感じだよねというのだけあって、あとは入力=インプットによってそのオブジェクト=生命体や物体自体のアウトプットが変わってくるオブジェクト指向に世界は近い気がする。
そして最初のおまえはこんな感じだよね自体も入力値=外界からの影響によってソースコードが書き変わっていくようなこの世界のオブジェクトはそんな感じで、それはオブジェクト指向の範疇なのかはわたしはまだわからない
オブジェクト指向には継承という概念があって、それは-is aで表され「~は~の一種だ」という意味になる
例えばさだしis a 人間だということができる
さだしは人間の一種だということになりさだしは人間を継承していると言える。
そして
人間 is a生命体
生命体is a 。。
というように遡るほど抽象的なものになっていく。
あいまいなものになっていく。そして最終的にインターフェースというものにたどり着く。
そこにはすごくあいまいでシンプルなコードが書かれている。最低限必要なものだけが書かれている。
おまえはこれを持っているということだけが書かれている
例えば冷蔵庫であれば『冷やす機能』が最低限必要な機能。『どのように冷やすか』はインターフェースには書かれていない。それは各メーカーが実装する。
さて、ここで『わたし』というものを遡った時にそこにはどのようなコードが書かれているのだろう、
『命』というところまで遡って、
「生存せよ」というコードがあるのは
想像ができるのだけれどその先が見えない
しかし生存は『わたし』の最終目的とは到底思えない
『わたし』というものを遡った時に書かれている、あいまいでシンプルだけれどなくてはならないそれだけを
それだけを知りたい
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うれしいとかさ愛しいとかさ
どうしようもないせつなさとか
居てもたってもいられない衝動とか
確かにここに在るのに
脳みそ開いてもきっと見えないんだ
どこにも書かれてないんだ
僕が僕のソースコードを覗けたとして
そこにはきっと生存せよ以上のことは書いてない
冷蔵庫だって『冷やせ』というコードはあっても
‘’なんのために冷やすのか‘’は書いてない
なんのためにあるのかはその冷蔵庫を見た人が自分で理解するしかなくて
『わたし』がなんのために在るのか、
それは自分で見て知るしかない
もしかしたら『命』とは違うところから来てるかもしれない