自由意思がなかったとして
朝目が覚めたらわたしはわたしだった。ちっわたしか。田中がよかった。
しょうがないからわたしはわたしをひきずって今日も歩く。
『意識』というものはなんのために存在しているのか。
哲学的ゾンビ
もしも明日わたしの意識が目覚めなくて、何かの手違いで身体だけが目覚めて外に出たとしても、わたしを知ってくれている人間は「よっ『わたし』」と言って変わらずに接してくれるだろう。そして続け様に質問を投げたり、自分の近況なんかを話してくれる。そうするとゾンビわたしは、その脳内に蓄積した情報から『わたしらしい答え』を返す。相手は「あ、『わたし』だ」と認識して安心してくれる。反対にもし目の前の相手がなにかの手違いで今朝から哲学的ゾンビになっていたとしてもわたしは気づかないだろう。
※哲学的ゾンビ
意識はないけれど人間のように振舞う存在。
名前と役割
意識があるようにさえ振舞っていればいい。わたしの脳みそはAIでも問題ないのだ。インプットに対して大量のデータから自動的にレスポンスする。ただデータ量と処理回数が多い、つまり複雑なので外からは意識があるように見える。ラッキー。心なんてなくていい。名前と役割だけで十分なのだ。ではどうして意識なんてものがあるのか。勘弁してほしい。
他者にとってわたしの意識は必要ない。しかし自分にとっては必要かもしれない。。
自由意思
なんとかさんのなんとかという実験で証明されてしまった
0.55秒前に行動するための指令が出されていて
0.20秒前に動かそうという意識が動いていて
0.00秒に行動が発現する
つまり人間が動かそうと意識する前に、動かすための指令が出ている。
「動かそう動かそう」はつまり「動いた動いた」なのであり。
あれ、自分にとっても意識って必要なくね。。
わたしって
私たちの意識はなにかを変えるためにあるのではなく、なにかを認識するためにあるのではないか。世界がひどいから変えるのではなくこの世界ははじめから美しいものでありそれに気づくためのプロセスを体験しているような壮大な映画をみんなで見ているような。バラバラにわかれたので一人では絶対気づけないんだけど、なんか話せば気づいちゃうみたいな。
神様ってきっとててもさびしかったんだと思う
知らんけど