いじめによって記憶がなかった中学二年生に比べて 三年生の頃の記憶はすごく色鮮やかに残っている。 イジメや裏切りを経験して親友と呼べるような友達はいなかったけど それなりに仲良く過ごせる友達ができて、クラスにも溶け込んで過ごせた。 中学も三年生にもなればみんなの話題は誰が誰を好き、だのキスはしたかしてないかだの 恋愛の話題が多くなって行った。 かくいう私もそれなりに男の子とは縁があった。 中学二年の春に1つ学年下の新入生の男の子が、 落し物をしたのを一緒に探して
今この記事を書いている、30代も後半に入った私は 記事を書くにあたって当時の自分の思い出を振り返って驚いた。 ほとんど記憶がなかった。 誰と同じクラスだったか。 クラスでの授業や、文化祭や体育祭のこと。 当時何が流行っていたか。 担任の先生は誰だったか。 いじめを受けていた中学二年生の後半期間の記憶はほとんどなかった。 部室でピアノやオルガンを弾いていたとか、些細なことを断片的にしか覚えていない。 誰かに聞いたことがある。 人間は忘れる生き物だから、と。
※注意※ 今回の内容には過去の自殺未遂に触れています。影響を受けやすい方は閲覧しないでください。 また、自殺を助長するためではなく、今後、ここから立ち直った自分の人生の過程を描いています。 閲覧は自己責任で、くれぐれもご注意ください。 イジメをきっかけに、私はだんだんと部屋に閉じこもるようになっていった。 学校には何とか行っていたが、友達の定義を見失った私はどんどん孤立していった。 変わらず家の手伝いはしていたが、疲れて帰ってくる両親を避けるようになっていた。
中学校では文化系の部活に入った。 本当は吹奏楽部に入りたかったけど、高価な楽器の購入が必要とわかってやめた。 それでも部活は楽しく、大会では結果を出す常連校だったため真剣に取り組んでいた。 その頃の私と言えば、人見知りで内弁慶、仲良くなればよく喋るが 人目を気にして目立つことはあまりしない方だった。 部活では3年生が3人、2年生が7~8人、私たち1年生が9人いた。 1年生の頃は、大人っぽい3年生の先輩が舵を取る練習について行くので必死だった。 問題は2年生に上が
#3 家族の居場所 の続きです。 祖母が亡くなる少し前から、家族には問題が発生していた。 バブルの崩壊によって父の仕事が少しずつ傾き始めていたところで、 父は借金の保証人になった知人が逃げてしまったか何かで 尋常ではない額の借金を抱えてしまったようだった。 母はパートに出るようになり、会社をたたんだ父は家にいる日が多くなり、無言の重圧が子供心にも理解できて、息苦しかった。 私が中学生の頃に、住んでいた家を売り、家賃の安い賃貸で暮らすことになった。 広い家から、沢
前記事の幼少期の続きです。 大きくなるにつれて、妹は少しずつ体が丈夫になり入院することはなくなっていった。 私は一人ぼっちでお留守番することもなくなってきたがその分今度は常に妹がいた。 家で遊ぶときは当たり前なんだけど、いつもいるから 大好きだったジグゾーパズルはいつも邪魔が入り、1人でコツコツと、黙々とできず、 ピースをぶちまけられて、なくしてしまったり、気付いたらやめてしまった。 パズルが完成した時に両親がほめてくれたからやってたのかもしれない。 ピースがな
普通の家に産まれたと思う。 父は自営業、当時はバブルの恩恵で忙しく あまり家にいた記憶がない。 出張から帰ってきて、上機嫌に酒を飲んでる姿の記憶が多い。 それでも、夏休みの間はプールに連れて行ってくれたり 母の田舎に帰省するときは、高速道路を何時間も1人で運転し続けてくれた。 酒好きで人付き合いが良く、色んな人と交流を持っていた。 だが、お酒を飲んでいない時に家にいる間は、ムスッとしていて どちらかと言うと厳格。 所謂昭和の男。団塊の世代ど真ん中の人だ。
30代、アラフォー、独身、バツイチ、子なし。 ずっとずっと色んなことを我慢して生きてきました。 ここまで生きてきてつらいこと、かなしいことが多い人生でした。 でも自分では、この程度のこと、世の中にはもっと大変な人がいる 自分はまだ恵まれている方だ だから自分に降り掛かってくる出来事をつらいなんて思ってはいけない そう思うのは私が弱く、だらしなく、足りていない人間だから。 もっと強くなりたい、何も怖いことなどないと言いきれるくらいに。 そう思って生きてきました。