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山窩(サンカ)理解の難しさ

 父が晩年に、山に棲み漂泊するサンカについて、よく分からないと嘆いていた。何かと研究熱心な父は、関心を持って色々と調べていたようだが、その甲斐はなかったのだろう。
 それから十数年経って、自分も同じ思いである。

 山窩という言葉が登場するのは幕末のことである。

 蓑作りや竹細工で生計を立てながら、家族単位で山から山へと移動していく集団である。平地の民と交流し、蓑や竹製品を売ったり、また古くなった竹製品を頼まれて直したり、そして対価として米などを貰っていた。従ってサンカは山中奥深いところではなく、山中ではあるが人里に近いところで生活していたのである。

蓑作りの様子

 幕末の探検家、松浦武四郎が飛騨と美濃の国境辺りの山中で、腫れ物ができる病に罹り困っていたところサンカに助けられたという。親切にもお茶や食事を出してくれ、そのサンカの頭は「何か困ったら『郡上の爺』に助けられたと言え」と言い残して去った。その後、別のサンカに遭遇し「郡上の爺」(ぐじょうのじい)の名前を出すと、医術の心得のある者を連れて来て薬まで処方してくれ、武四郎の病はすっかり治ったという。
 武四郎は後に「涙こぼるるばかり」と回想している。

 明治に入ると、民俗学研究家の柳田國男が「イタカとサンカ」という著作の中でサンカの存在に触れている。
 明治は並み居る列強に伍していかねばならない近代化の時代である。国家として徴兵による軍隊を維持するために全国民の戸籍調査が必要になり、戸籍を持たず山から山へ漂泊し続ける事は許されなくなってくる。この頃のサンカの人口は約二十万人と言われている。
 またサンカなのかは定かでないが、山から降りて来て里の家々を襲う強盗集団が居るとして、当時の警察資料には記録されている。(これが本当ならば、平安時代の酒呑童子や土蜘蛛とも繋がっているのかも知れない。)
 研究者、行政、警察、それぞれのサンカ観があったようだ。

 昭和に入ると、三角寛(みすみかん)という研究者兼小説家が、サンカと共に生活しながらその生態について写真も交えて書いているが、彼自身も言っているように、あくまでも小説なのである。
 三角寛は写真撮影なども、あらかじめ手順や構図を決めてその通りサンカに演じさせていたと言われている。そういう姿勢から三角寛は批判される事も多いが、彼がサンカの神秘性に魅せられていった事は確かである。

 昭和三十年代にサンカの目撃談は途絶えるが、その後も平地に同化したサンカの末裔の話は出てくる。自分が色々な著作を読んだ限りでは平成の中期までは末裔が存在していたと思う。

 サンカの起源については幾つかの説がある。

一、中世難民説
  南北朝時代から戦国時代にかけての動乱期 
  に、平地の生活を諦めて山に入った人々。

ニ、近世難民説
  江戸時代後期の飢饉が多発した時期に、平
  地の生活を諦めて山に入った人々。

三、縄文人または出雲族の生き残り
  最もロマンティックな説であるが、DNA鑑
  定ができれば分かるかも知れない。

江戸期困窮民

 サンカの起源については上記のいずれかであるかも知れず、幾つかの混合であるかも知れず、またどれでもないのかも知れない。
 (空海が高野山中で修行している時に猟師に会ったという話があり、また源義経が一の谷の合戦の前に猟師に出会い、鵯越の道案内を頼んだという話がある。この猟師というのは文字通り鳥獣を獲る者なのか、マタギなのか、またはサンカだったのか、どれも可能性がある。)

 幾つかのエピソードからは、少なくともサンカ研究者が彼らに魅せられていった理由が分かる。

 彼らは現れたり消えたりする神秘性を備えており、どこに現れるかは分からない。また身体能力に優れ、手先が器用で、性格的には純朴で欲がなく、全体的に非常に親切な人々である。
 所有観念が希薄であったらしいから、お互いさまという感覚で、平地の民の所有物を勝手に持って行きトラブルになることもあったようだ。

 サンカは聖性と賤性を兼ね備えており、非常に興味を惹く存在である。近代の資本主義に組み込まれるに従って聖性の方は失われる傾向にあったと思う。

 今回はプロローグのみであるが、サンカについては折に触れて書いていきたいと思う。


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