豊かなコミュニケーションの秘訣は「飛躍した言い換え」なのだろうと気づいた日の日記
前半はこちら(農協のレジマダムたちの気さくなコミュニケーションに癒され学んだ日記)
楽しい気持ちで農協を後にし、3分歩いてスーパーへ。入店すると黒いシックな壁に高めの天井、奥まで広々とした店内が見渡せる。入り口付近には店内で焼き上げた地産のパンがたくさん置かれている。
子供の頃によく行った場所や遊んだ場所は、大人になっても自分の心を支える原風景になりやすい。私は子供の頃から毎週家族で大きめなスーパーへ買い物に行っていたからか、広いスーパーに行くことは癒しであり、もしかすると原風景の一つなのかもしれないと最近気づいた。
心躍らせ店内を回り、必要なものを買った後、小綺麗な椅子と机のある休憩部屋へ移動。部屋の奥に、怒涛の勢いで仕事をしているビジネスマンがいる。距離を取りたい気持ちと、私も奥に座りたい気持ちがせめぎ合い、結局奥を選ぶ。
高い天井に大きな窓、ソファのような椅子にWi-Fiも入る。PCを広げnoteへアクセスする。はじめましてのHSPのVanさんから雑談についてのコメントが入っていることに気づく。誰かが何かを感じて応じてくれるのは嬉しい。私が在籍している学校で初めて教室を受けもった時に、あらゆる物事を一瞬で見抜く校長先生に名付けてもらった教室名が「感応おにぎり教室」なので、おそらく私は感応の人なんだろう。自分一人で自分を知るのは難しい。誰かとの関わりの間で動いている情報や、誰かに言われて気づいたことこそが自分を象徴していたりするので、自分を知るには、どうしたって他者が必要なのだ。
などと考えながら前日の日記を書き、始業時間の10分に店を出る。悠々間に合うと思ったらギリギリだった。なぜそうなるのか。私は物事Aから物事Bへの切り替えが苦手だ。なのに人の数倍、多岐にわたる物事に着手している。そして一つの物事にチェックインするのが鈍い。鈍いなりに乗ってきた、と思ったらそこで切り上げることが常。だから、今やっていることを1秒でも長くやっておきたいからなのだ、というのが現状の自己理解。
また、何かの集まりに行くときに、人と話すことに自信がないと、到着が遅くなる。これは昔からそうだ。つまり、自分にばかり矢印が向いている自意識過人間なのである。
出勤し、場内へ。久々に、ちょっと仲良しのバイトの子がいる。久しぶり、と軽くおしゃべり。立場が上の人だと話しにくさを感じる私は、対等な立場の人だと話しやすい。理由は、立場が上の人はそっけない、という過去の、ごく一部の経験をいまだに見ているからだ。過去を見て自己保身が働いている。けれども見るべきは事実であり、事実を見ていない地点で結局何者からも身を守ってはいない。見ていないということは、目の前の獣が突然猛攻をしたって気付けない状態なのだ。
とはいえ今日は場内が空いていて、立場が上の方もちらちら話しかけてくれる。スーパーで、noteのコメントをくださったVanさんを思い出し、自分から話しかけてみようと職員さんに声をかけた。事前に頭の中であれこれ考えず、視覚で捉えた物事について、おっ、と好奇心が動いたことをパッと言葉にした。ほんの2、3ラリーだったけど、気が休まるような雑談ができた。私たちの職場は、雑談を始めても割とすぐお客さんが来るので、雑談の終息に向けた起承転結どうしよう、と悩むことが少ない。もしお客さんが来なければ、なんとなく終息して、手元で作業をすればいい。やることがある中での雑談は、どさくさに紛れられて、やりやすいのかもしれない。
と、ここまで書いて思ったのは、私は雑談にハイレベルなおもしろさを求めているのだろうということだ。人を驚かせなければ、とか、笑いを起こさねば、とか、自らハードルを高くして苦しんでいる。おそらくその発端には、そうしなければつまらない人ね、と思われて人が自分の元から離れていくとか、話しかけられなくなる、などと、これまた過去の一部の経験を引きずっているのだろう。
バイト中、他の人の雑談を聞いてふと思った。コミュニケーションとはつまり相手の話の言い換えで、言い換えの意外性や飛躍にどれだけエッジを効かせるかが、あの人とまた話したい、と思わせるポイントなんだろう。私はこれでも、インターネットの学校でいつも生徒さんにこういうことを指導しているため、会話にどういう方法が使われているのかを見抜くことはできる。だから、何をどうしたらいいのかもわかる。けれども、いざ自分がその方法を使う、となると、できない。単語の目録とイメージの辞書が不足しているし、毎日の中で、声帯を振るわせて「喋る」というアウトプットをする場面が少なすぎるのだろう。
みなさんより一足先に退勤。ほしいものがあって、客として場内へ。すると、高めの天井にずらりと並ぶ頒布品、天然木のランプに包まれた白熱灯がやわらかさを醸し出し、そこにいる職員さんたちも高貴に見えた。お客様の目線からすると私たちはこう見られているのか。主客の入れ替えによって見え方が変わり、お寺の人として自分がこの場所でどんな清潔感や感じの良さを演出するかを考えて実行してみよう、と思うとわくわくしてきた。
ほしいものを買った私に職員さんは、なんでも受容してくれそうなグレートマザーのようにやわらかく微笑んでくれた。白熱灯のやわらかさも相乗効果になったのだろうが、私もそう在りたい、と、素敵なロールモデルを見た。
※写真は日記に出てきたスーパーの代用です。