愛の眼差し
Sちゃんのおうちでお世話になっていた時、Sちゃんはよく「ちょっとあったかくするからね」といってキッチンに立った。ミルクはホットミルクだし、お茶はちょうどいい塩梅に温かいし、ご飯はどれも出来たてを食べさせてくれ、それはSちゃんの中では当然のようだったけれど、いつも冷蔵庫から出しっ放しの冷たい牛乳やペットボトルの水をそのまま口にして、ちょっと冷えていても「まいっか」と惣菜を立って食べるような私の胃や腸が、その小さな心遣いに小躍りしている実感はあった。
きわめつけは、ちょっと山あいにある素泊まりの民宿に泊まる際に「明日の朝は冷えるから」といって野菜がたっぷり入ったスープをホーローの小鍋に入れて持たせてくれたことだった。Sちゃんのいう通り、その次の朝は震えるほど寒くて、だから小鍋で温めたスープを木のスプーンで食べた時、思わず「あったまるーう」とひとり呟いた。Sちゃんの「あったかいものを食べてね」という優しい言葉が胸に蘇った。幸福な朝だった。
常々思うことがある。Sちゃんのような「朗らかな人」というのは往往にして、小さな心遣いを誰に対しても行うのだ。文字通り「誰に対しても」。家族だけ、じゃなくて、友人だけ、じゃなくて、通りすがりの人、にもやっている節がある。
要は、小さきものにまでちゃんを眼差しを向け、愛を注いで生きているのである。そして、そういう眼差しのある人というのは、人知れず小さきものの痛みまで想い、涙を流している。その繊細さと強さのバランスが調和している人を、私は心から尊敬している。
「朗らかな人」のそばで毎日を過ごしていると、フォロワーが何人いるか、とか、どれだけ社会的に成功しているかとか、肩書きがどうだとか、そんなことは人生の幸福度には全く関係ないのだと思い知らされる。
それよりも、「愛の眼差し」を誰に向け、また誰に向けられてきたかのほうが、よっぽど人生の幸福感につながるのだなということを、Sちゃんがドライブする車に揺られ、彼女の綺麗な横顔を見ながら想った。