「嫌なものは嫌」を受け入れられますように
「自分だけは例外」
そんなことは絶対しないと思っていても、いざその場面となると、なりたくなかったまさにその姿になってしまっている。そんなことが往々にしてある。
例えば、
自分は好きなテレビを見ているのに
頭が悪くなるからテレビを見るなという大人。
「みんながやっているんだからあなたもやりなさい」
と行きたくもない教室に押し込める大人。
着たくない服を「せっかく買ったんだから着なさい」
と無理やり着せて「似合う似合うー」と笑う大人。
もしも自分が大人になったら、
絶対に子どもの気持ちを第一に考えるんだ!と押入れで誓っていたのに、
私が今日やっていたことは、昔、私がされて嫌だったことと一緒だった。
それが心底、悲しかった。
そして、あの時の大人の気持ちもわかってしまった。
それが、どうしようもなく、切なかった。
娘が幼児教室の前で「行きたくないー」と泣き叫んでいたのに、
「早く行かないと始まっちゃうよ」
「終わったらリンゴジュース買ってあげるよ」
「行かなかったらもう二度と来ないよ」と
飴と鞭を雨あられと降らせている私には、
今になって考えると、心の余裕が全くなかったんだろうな。
Withコロナの新しい生活様式はコチラ!と世間が無理やり前向きになっていても、うちの生活はずっと不安で、おまけに夫も家にいなくて、両親は年老いている。優しくなりたいと思っていても、自分に余裕がないと人に優しくできない。それは、子育てにおいて、何よりも如実に表れてしまう。
娘が教室の玄関先で大声で泣いていて、正直
「泣きたいのはこっちだ」と私も涙目になっていた。
「あの親子、大丈夫かな」という周囲の視線は胸を刺す。
みんなに迷惑をかけているのでは?という世間体を気にして、
「今日は帰った方がいいんじゃない?」という言葉に、
「せっかくお弁当も作って来たのに」と
私の都合を主張したくなる自分に気づいて、情けなくなる。
ああ、こういう親になりたくなかったのにな、と
教室を後にした途端、泣けてきた。
娘の心ごと受け入れて「嫌なんだね、じゃあ帰ろっか!」となんで言えないのか。怒るべきは娘じゃない、親の私の傲慢さなのに。
片道20分の自転車を漕いで、漕いで、漕いで、
自問自答していた。
私は、どうして「なりたくなかった親の姿になっている?」
家の近くの公園を通りかかった時、
キッズシートから「公園に行きたい!」と娘が叫んだ。
さっきはあんなに号泣していたのに、
子どもは切り替えが早いな、まったく、と思いつつ、
家に帰ってもやることがないので自転車を止める。
自転車を飛び降りて、一目散にブランコへ走り出す娘の後ろ姿が
健やかすぎて、眩しい。
「ママ、もう怒ってない?一緒に遊ばない?」
子どものほうが、何枚も上手で、驚く。
そうか、ふくれっ面の私の気を晴らそうとして、
一緒に遊ぼうとしたのか。
なんと賢いのだろう、子どもってやつは。
一緒にブランコを漕ぐ。思いっきり漕ぐ。
娘に笑いかける。娘も嬉しそうにケラケラ笑い声をあげる。
ああ、よかった。
私が反省してることも、伝わってるらしい。
娘も娘なりに、少し叫びすぎたーとか、思っているのかな?
子どもの頃の私が、少しだけ私を許してくれる気がした。