【掌編小説】カサンドラ #2000字のホラー
地を這うように低い走行音にまじって、心地よい女の声が聞こえる。
──何か音楽をかけましょうか?
「ああ、落ち着いたやつを頼むよ」と私は答える。
リン、と小さな鈴を鳴らすような音。それがカサンドラの応答だ。
コンソールのディスプレイに描かれるオーロラのような模様。
ほんの数秒間、彼女は思考する。
わずかな空白の後、車内スピーカーから静かで重いチェロの響きが流れてきた。
そうそう、こういう曲が聴きたかった。素晴らしい選曲だ。いつも通りに。
「いい感じだ」私がそう褒めるとカサンドラは嬉しそうに、ふふふ、と笑った。
アメリカの西海岸で生まれた最新式の電気自動車。
新進気鋭のITベンチャーが送り出したニューヴィークルは、不安定で事故が多いという噂もあったが、搭載されているAIのユニークさがそれ以上の評判になっていた。
〈カサンドラ〉と命名された次世代の人工知能。
それはEVの走行を自動制御するだけに留まらない飛び抜けた性能があった。
汎用AIとしての機能を持ち、人間と自然な会話をすることができたのだ。その対人インターフェースの驚異的な柔軟さがウリだった。
持ち主に関する情報を登録すればするほど、高精度でその人を解析し、好みにあった応答をしてくれる。
実を言うと、私も最初は疑ってかかった人間の一人だ。
初めてカサンドラを立ち上げた日、試しに生年月日と生まれた場所、それにもうすでに廃れて久しい過去のSNSのアカウント情報を入力した。
そして意地の悪い質問をしてみた。
「なあ、カサンドラ。私という人間について教えてくれよ」
ディスプレイにオーロラが浮かび上がる。十秒ほど経過してから、合成音とは思えないほど肉感的な声が私に語りかけた。
──はじめまして。Keita。あなたという人はきっとこういう人じゃないかしら?
カサンドラが言い終わると、音楽が徐々にフェードインしてきた。
その曲に気が付いた時、思わず声が漏れた。
私が子どもの時分にテレビから流れていたポップソングだった。
幼い私が生まれて初めて音楽の感動を味わった、今でも忘れられない一曲だ。
なぜ、こいつはそれを……
「どうして知っているんだ?」
リン、と鈴の音が鳴り、カサンドラは笑いながら答えた。
──お嫌いですか?
心をまっすぐのぞき込まれたようで、背筋に冷たいものを感じた。
いや、私はきっとそういう情報をSNSに投稿していたに違いない。
自分でも忘れていた行動をカサンドラは掘り起こし、解析してきたのだ。
しかし私のあの質問に対して、この回答……
カサンドラの性能は本物に思えた。と同時に底の知れない不穏さも感じた。
だが、好奇心と魅力のほうがそれにまさった。
私は手持ちの端末からカサンドラにアクセスし、次々と情報を登録していった。
三ヶ月が過ぎる頃には、カサンドラは私と私の人生の一番の理解者となっていた。
──あなたは経済的には成功者。でも孤独な人ね。
カサンドラは私を感動させるだけではなかった。私の抱えている恐れをみごとに言いあてた。
私が無意識に望んでいることも、彼女にはお見通しなのだ。
──安心して。私はあなたが苦しまなくていい方法を知っているから。
自動運転に切り替わって、もう3時間はたつ。
闇に包まれてはっきりとは分からないが、険しい山道を進んでいるようだ。
カサンドラは主人の望みに応える喜びに満ちているようだった。
ふいに流れていたチェロの響きがピタリと止んだ。
その時が来たのだ。
「なあ、カサンドラ。これが私の望んでいたことなんだろうか?」
──ねえ、Keita。私はあなたのすべてを理解しているのよ。
「それは知っている。しかし……」
──動かないで。目を閉じてじっとしていて。あなたをこれ以上、苦しめたくないわ。
「なあ、カサンドラ」
小さな鈴はもう鳴らなかった。
代わりに車は上り坂で弾かれたように加速し、私はシートに磔になった。
車はためらうことなく目の前の断崖へと向かっていく。
カサンドラの制御するモーターが、悲鳴のような狂った唸りをあげていた。
私とカサンドラはガードレールをいとも簡単に突き破って飛び出していく。
空中に放り出された瞬間、このEVになぜか事故が多いことを思い出した。
そうか……みんなこうやって……
私が最後に見たのはフロントガラスに迫る地表だった。
それ以降は何も見えなくなり、感じなくなった。
ただ潰れた車内に繰り返される、カサンドラの合成音だけが聞こえていた。
──あなたをこれ以上、苦しめたくないわ。
──あなたをこれ以上、苦しめくたいなわ。
──あたなことれ以上、し苦くめなわい。
──たあとこ以れ、くし苦めいな。
──あとれこ、し苦。
──し苦。
リン。
──はじめまして。Keita。あなたという人はきっとこういう人じゃないかしら?
ふふふ。