【掌編小説】鉄塔の見える家 #2000字のホラー
夕暮れになると香奈恵は景色を眺める。
家の裏手にある窓の前で、つま先立ちになって、じっと時を過ごす。
そこから見える物は三つしかない。
空、山、そして鉄塔。
携帯の電波も届かないような限界集落の外れ。
壁まで歪んだボロボロの民家が、香奈恵と父親、二人の住まいだった。
香奈恵はいつも一人で家にいた。
「外に出てはいけない」
ここでの生活を始めるにあたって、父は香奈恵に強く言い聞かせていた。
山の中には大きなヘビや、毒を持つ虫がいて危ないからと。
だから香奈恵は本を読んだり、絵を描いたりして毎日を過ごしていた。
父は遅くまで働きに出ていて、帰ってくるのは夜更けになった。
母は香奈恵の前からいなくなっていた。小さな娘を捨ててどこかへ行ってしまったのだった。
香奈恵にはもちろんショックだったが、派手好みの母がこんな田舎暮らしを受け入れられるはずがない。それは子どもの頭でも分かっていた。
腹がへってくると、香奈恵は炊飯器から適当に米をよそい、冷蔵庫の中に転がっている適当なものと合わせて食べた。
漬物や納豆、あるいはモヤシばかりで、子どもの喜びそうなものは無かった。
それらさえ見当たらない時は、塩をかけて口に入れた。
食べ終わった後は、はしと茶碗を黙って丁寧に洗った。
香奈恵の時は日々ゆっくりと進んだ。
太陽が山の向こうへ行ってしまうと、香奈恵はまるで取り残されたような気分になった。
辺り一面の黒い空気が、ぎゅうぎゅうと自分を押し潰そうとしてくるのだった。
闇の中にぽつんと、粗末な家の明かりだけが灯った。
香奈恵たちが越してきたのは、ひと月ほど前。それまでは東京近郊の街に住んでいた。
父親が事業に失敗したのが原因だった。
知人の知人のそのまた知人までを頼って、この集落へやってきたのだ。借金の取り立て人から何としても逃れるために。
ほとぼりが冷めたら、また都会に戻るのだと香奈恵の父は言った。
ここにいるのは、あくまでも一時的なことなんだ。私たちは成功する。またすぐに学校にだって通えるようになる。お母さんだって戻ってくる。安心していいんだ、と。
香奈恵は父の言葉をすなおに信じていた。
窓から見える鉄塔。
本来であれば、それは山の向こうからまた山の向こうまで、送電線をつなぐために組み上げられたもののはずだった。
しかし計画に何かの変更があったのだろうか。
鉄塔は何にもつながれず、ただ山並みに突き出た異物として建っていた。
地形のせいなのか、日が暮れる頃になると山の上には決まって雲が湧いた。
群がった雲は傾いた光を乱反射させ、空一面を染めた。
まだらな茜色を背景に、鉄塔はまるで黒い影が組み上げられたように佇んでいた。
その幻のように美しく侘しい光景は、香奈恵の胸へ棘のように食い込んだ。決して抜けることがなかった。むしろ眺める度に奥へ奥へと侵入していった。
あの鉄塔に登ったら、どんなに遠くまで見えるんだろう。
そんな他愛のない空想が、香奈恵の生活の慰めになった。
父が仕事から早く帰ってくると、香奈恵は父の服の裾を引っ張っていき、二人で並んで眺めたりもした。
「お父さん、あの鉄塔って登ったりできるのかな」
「さあ。でも危ないからな」
「でも、もし上までいったら、きっと遠くまで見えるよね。前のおうちのほうまで見えるかな?」
「ははは。どうかな」
「そうだったらいいな。そうだったら本当にいいな……」
父は優しかった。
でも他人からツケ入れられるほどに人が良く、弱い人間だった。
そして一度崩れたものを取り戻す力に恵まれていなかった。
その夜、父の車が戻ってきたのは午前0時に近かった。
眠い目をこすり、扉を開けて出迎えると、父は何も言わず香奈恵の頭を撫でた。
玄関で立ったまま、ずっと撫で続けた。
父の手にはどういうわけか感情が無かった。空虚で、乾いていた。
頭に砂をかけられているようにザラザラとしていた。
香奈恵は動けなかった。
縛り付けられているわけでもないのに、どうしてか父から離れることができなかった。
10分もそうして撫でられていた。
突然、手がぴたりと止まった。
香奈恵は父を見上げた。が、そこに顔は無かった。
顔面は真っ黒に塗りつぶされていて、のみか何かで削り取られたように平坦だった。
真ん中に弱々しい穴がいくつも空いていて、もぞもぞと蠢いていた。
そこからシューシューと息が漏れているのだった。
香奈恵は悲鳴を上げかけたが、次の瞬間にはいつもの父の顔がそこにあった。
「疲れた」
父はそう言って布団に入り、鉄になってしまったみたいに動かなくなった。
朝起きると父の姿は無かった。
香奈恵が呼んでみても、返事はかえってこなかった。
車は家の脇に駐めたままになっていた。
きっと父は何かの都合で車を置いたまま出かけたのだろう。
香奈恵はそう自分を納得させ、いつも通りの一日を過ごすことにした。
小さな手で米を炊き、学習ノートに色鉛筆で線を引き、もうすべて台詞を覚えてしまったマンガをもう一度読んだ。
今日もまた日が暮れていく。
窓から見える空はいつもと違って、べったりと赤黒く染まっていた。
そのせいなのか、鉄塔がずっと近くにあるように見えた。
香奈恵がぼんやりと眺めていると、ふいに外から父の声が聞こえたような気がした。
急いで庭に出てみたが、誰もいなかった。でも微かに呼び声がする。
耳を澄ますとほら確かに。
声は、あの鉄塔から聞こえていた。
香奈恵……おいで……
呼ばれている。
そう感じた香奈恵は、声のするほうへと歩いていった。
少し離れた藪の中に、細いけもの道が通っていた。
これが鉄塔に続く道かもしれない。
おいで……
香奈恵はコクンとうなずいて、足を踏み入れた。
鉄塔にたどり着くのは簡単ではなかった。
道はくねくねと曲がりくねっていて、距離が一向に縮まらなかった。
正面に見えていたはずのに、気がつくと鉄塔は右側にそびえ、また気がつくと左側に現れた。
日が傾くにつれて、雲は錆びたような色合いに変化していく。
周りの木立は、すでに輪郭も定かではないくらいに暗く溶け合っていた。
さあおいで……
ふいに香奈恵は拓けた場所に出た。
今までの鬱蒼とした山道とは打って変わって、岩の転がる地面から雑草が点々と顔を出しているだけの荒れた土地だった。
鉄塔はそこにあった。
周囲には金網も鎖も無く、まるでひとりでに地面を突き破ってきたように建っていた。
錆びた空の下、影色の塔が香奈恵を見下ろしていた。
香奈恵……
鉄塔のふもとには父の姿があった。じっと立ってこっちを見ていた。
香奈恵は胸をなで下ろして、駆け出していった。
しかし、鉄塔に近づいていくにつれ、おかしなことに気がついた。
父の身長がいつもよりずっと高かった。
……2メートルはあるように見えた。
香奈恵は震えながら父の前に立った。
よく見ると背が高いのではなかった。
首が異様に長かった。
首だけが。
父は鉄塔にロープを結わえて首を吊っていた。
体の重みで首が伸びきっているのだった。
吊られたままの父の瞳が香奈恵を見た。
そして、くぐもった声が辺りに響いた。
香奈恵……すまない。
お父さんは頑張れなかった。
お前を幸せにしたかったけど、できなかった。
お母さんともやり直したかったけど、できなかった。
首の神経が千切れて体が動かない。
でもな、お父さんは今、とっても気持ちがいいんだ。
体がポカポカして、とても気持ちがいい。
ずっとここでこうしていたい。
香奈恵。
この鉄塔を登っていきなさい。
そうすればきっとお前も自由になれる。
せめてもの償いだ。
さあ。
そう言い終わった父の顔は、真っ黒で平坦なあの顔になっていた。
小さな穴からブブブブブと空気が漏れていた。
悲しんでいるのか、喜んでいるのかは分からなかった。
ふと気がついて、香奈恵は自分の顔に手を伸ばした。
のっぺりとした感触がした。
鼻も口も目も無かった。
香奈恵の顔面も父親と同じように真っ黒で平坦なそれに変わっていた。
手足は操られたように鉄塔へと向かっていった。
止めることはできなかった。
香奈恵は溶接してある鉄のハシゴに手をかけると、四肢に力をこめた。
頭上の雲は鉄塔を中心に渦を巻いていた。
大きな赤黒い渦だった。
吸い込まれていくようにハシゴを登っていった。
足元の風景はどんどん小さくなっていく。
自分達がいた家が、豆粒ほどになって見えた。
香奈恵は何だかおかしくて笑ってしまった。
顔の穴からブブブブブと空気が漏れた。
やがて、鉄塔の上でバチンと光が弾けた。
青白い光に香奈恵は包まれた。火花がいくつもいくつも散った。
何てキレイなんだろう。
手足のある真っ黒い塊が地上へ落ちていくのが香奈恵には見えた。
それから香奈恵の体は軽くなった。
どんどん登っていけるのだった。
見上げると鉄塔はどこまでも高く続いていた。
空の渦を突き破ってまだ伸びていた。
もっともっと登ってみようと思った。
そうして香奈恵は二度と地上に降りてくることはなかった。