【小説】音の記憶
あともう一寸で自分の思った音が出せる、何度そう思ったんだろう。
家にピアノが無い私には、放課後の音楽室は死守したい場所だ、皆そこにに居たがってるわけでは無い、だけどピアノを狙ってるのは自分だけじゃない。
ピアノの前に座ると指が動く、教えて貰った訳じゃ無い、近所の音楽教室を眺めて真似をしている。
「もう充分弾いたんじゃ無いの、家に帰ろうよ。」時間を見ながら美弥子が声を掛けてくる。
「もうちょい待って、もう直ぐ思った音が出せる気がするのよ。」そう答えながらも、呆れた顔で待っていてくれた。
「もう帰りなさい。」毎日先生が声を掛けてくる、それを合図に私達は校舎を離れた。
「恵美子さ、先生に言われなきゃいつまでも弾いているでしょ。」帰りに美弥子が言ってくる。
そうかも知れないし、違うかもしれない、でも毎日自分の欲しい音には程遠かった。
帰り道には音楽教室が見える、その中は特別製の何かがあるみたいで、私は底で聞いた音が出せないでいた。
「お母さん、音楽の学校に行きたい。」母に訴えた日が在った、どうしてもあの音が弾きたかった。
「急にいわれてもなー。」母は戸惑っているように見えた、そりゃそうだ家にピアノなんて無い、音楽の素養って話であれば、学校だけだったんだから。
「ちょっと誰かに相談してくる。」そう言ってその日は、その話はしなかった。
「あのさ恵美子、音楽の学校って話やけど、お金も掛かるし、なかなか行かれへんみたいや。」次の日に母が言いにくそうに顔を見る。
「何で、何であかんの?」本気で音楽の学校に行きたい私は、食って掛かる、それで人生が変わってしまうかも知れない。
「聞いたんやけどさ、音楽の学校って、その学校の関係者の先生に1年くらい見て貰って、それで学校好みの弾き方をした子だけが受かるんやって、ここから毎週東京まで行って弾かなあかん、そんな財力うちには無いわ。」大人の事情って、言いたくないんだろう、困った顔が貼り付いている。
そうか、お金に阻まれるのね、そうだとは思って居たけど、だってピアノ教室の子供たちの音は同じ様に綺麗だ。
「解かった。」まだ解り切っていない自分が答えた。
それから私は放課後のピアノを止めた、美弥子はもう良いの?って聞いていたけど、それからは図書館に入り込んで、音楽室を考えない人生を生きようと思った。
あの音楽室の入って居た建物が、建て替える噂を聞いた、一番楽しくて苦い帰国の場所だ。
今の私にはピアノは遠い、でもあの音楽室は私の音を覚えていてくれているのだろうか、そう考えていた場所ももう無くなる。
後は私の記憶の中だけなのだ。