最後の選択肢
もしもは人生には無いのですが、もしって考える時がある、過去も未来もきっともしと人間は考え続けて生きて行くのだろうと思う。
私は過去に生きているのは辛いもんだと思って居た、その時期は未だ中学校時代で、自分の意味なんて考えていたからね。
ウーン中二病時代。
その頃の私と言えば、自分に自信が持てなかった、母親はお前は可愛くないというし、テストの点は悪いし、友達と言える人も少ない。
死ねるものなら死んだ方が良いんじゃない、死んだら悲しんでくれる人も居るのかな~、なんてネガティブに考えていた。
別に特別に頭が悪いとか、特別に体が動かないとかは無かったのだから、他人が見たら『なんて贅沢な。』と思うんだろうな。
人間は我儘で自分本位だ、自分しか考えられない、自分の悩み以外は考えない、それが悪いんでは無く必然なんだろう。
病気も怪我もない私でもそんな考えに時期が有ったのだから、これ病気で苦しくなると解っている人だったら、もっと死を考えるのだろうな。
スイスには自殺ほう助の団体が有るらしい、スイスでは自殺ほう助が許されているからだ。
その代表は現在90歳になる方で、自身は死とは無縁の生活を送っているらしい。
自身は長生きなのに何故??
この方、元はジャーナリストだったのですが、50歳の時に司法試験の合格している。
それからは、人生の最後にどのような選択を取るか、について助言する団体の1つで弁護士をしていたらしいですよ。
彼はその時にもう一つ踏み込んで、死を提供する側になりたいと思ったみたい、弁護士としての考えが有ったんでしょうね。
そこで団体を立ち上げたのが、世界的にも有名なディグニタスという自殺ほう助団体。
この団体にはひっきりなしに相談の人が来るらしい、約7000円のお金を払えば会員になれるからだ。
会員に為ったからと言って、簡単に死が手に入る訳では無い、死の心構えが出来たら、自分の診療録のコピー、なぜ生きるのが耐えられないのかを説明した手紙、そして1860ポンド(約25万円)をディグニタスに送ることが必要になる。
その後、ディグニタスと提携している医師の診断を仰ぎ、診察記録を見て致死量の薬を処方するか如何か決めるらしい。
何度も、他の選択肢は無いかを確認しながらね。
人権って言葉は難しい、人間の生きる権利と共に死ぬ権利もある、何が有っても生きていれば、なんて言葉はきっと自分が恵まれた位置に居るからこそ言えるんだろう。
どちらが正しいとは言えないけど、苦しんでいる人には選択肢が有っても良いのかもとの考えもある。
私自身が子供の頃に苦しかったから、自分の子供には悩んでいた時期に言ったことが有る。
「あんたの人生やから、どうするのも自由やし、それは否定せん、でもなお母さんは生きていて欲しいと思うで、あんたが好きやもん。」
これで納得したのか、元より死に近づいてなかったのかは知らない。
でもいつも生きていてくれて有難う、そう頭の中で思って居る、
自分の母親がそう思って居るかは疑問だが。
自分は生きて欲しいし、生きてきた自分のネガティブを頭に貼る付けてもね。
人に残された選択肢は最後まで使わないで欲しいな、何処かで必要としてくれる人は居ると思うから。