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認知症を持ち生きる自分を想像

はじめて「介護」と言う仕事に就いた頃に出会った出来事が、とても、センセーショナルで切なく、やりきれない思いが込み上げてきたことを思い出す。「俺は、特に何も悪くない(体は動く)のに、自分の意志で、自分の金で、そこのスーパーに買い物にちょっと行ってくるって言うのも駄目ってどう言う事なんだ!!」怒りと悲しみで震える顔と背中を忘れられない。


今、自分の事業所を持ち、そして、どうなの?って言われたら、まだまだ、始まったばかりで 切なさと、やりきれない思いは未だ無数に有る。だけど・・・です。今は自分で色々な事を開拓できるし、チャレンジも出来る。自分でできない事をひと様と協力するために走り出せる。少なくとも、今なら、あのお年寄りの男性とスーパーに買い物に行くことが出来る。  これだけでも、起業した事に十分な意味を感じています。


さて  自分が認知症に、いつなるのか?今も、既に私の脳細胞では始まっているのかも?と思える事もシバシバあるのですが、きっと、そのうち「あれ?」と言う感覚は、きっと感じるかと思うと、その時自分は?と。。。

テレビの報道も、最近は少し変わってきました。以前は、もっと認知症になったら絶望的と思われるような映像ばかりが目立っていたけれど、超高齢社会の今、偏った報道を見て差別的な思いを抱き、スティグマでいっぱいで居る暇なんて無い事を、みんな、気づき始めている。


だけど、今度は「認知症は神様がくれた幸せのフィルター」の様なお話し。本当にそうなの?・・・?

私の実家の父は認知症ではないが、可哀そうなくらい首の骨の手術、腰の手術、人工股関節全置換術、肺がん、胃がんと、病気のデパート。ここ10年、入退院を繰り返している。昨年の手術の直前には「あ~あ。もう、こんなんじゃ早く死にたい」と、こぼしてた。 そんな父に私は「あら、死にたいのに手術するの?」と呟くと、「ははは、そうだねぇ。まだ、もう少し生きたのか、俺も」と、笑っていた。その後、何とか今まで転移もなく過ごしているが多々の病と共に生きている。病と共にしていても、楽しい時間は過ごしたいし食べたいもの食べ、見たいもの見て・・・病気で有ろうと無かろうと、今の生活を過ごしている。頑張って・・・頑張って・・・だけど、頑張れているのは病気のお陰とか、絶対に思っていない。病気じゃなければ、今でも、小さな町工場だったけど、長々と引退もせずに働き続けていたと思う。でも、それは叶わない。誰もがみんな、思っていた将来を生きてはいないのかと思う中、父は、まあまあな自分流の日々を過ごしているかもしれないけれど病気と一緒に生きて、また更に悪くなるかもしれない事と背中合わせで、想像した将来とはかけ離れた無念があるはず。


私自身も病気にもなるだろうし、認知症にもなると思う。その時私は認知症は神様がくれたフィルターだなんて、多分思えない。もし、明日、来月、認知症だって言われたら、絶対に思えない。しかし、そのとき、周りに今の仲間やこれから仲間になる人が居る環境だったら、色々な事を助けてもらいながら過ごせるかもしれない。あの日見た、自分で動くことも、自由に時間を使う事も阻まれる様な介護の現場では無い 今の事業所を、そして地域の仲間たちとのつながりを作っているのは、勿論、この超高齢化社会で認知症の方と触れる仕事をしてきた中での倫理感を大切に仕事をしたいと言う思いは強いけれど、自分が自分らしく暮らしていくためでもあるのだ。認知症であろうと無かろうと。今、有る仲間と共に生きる。認知症を持ち生きる自分も悪くないと思える そんな仲間を増やし続けたいです

#認知症 #居場所 #パブリックスペース #生きる #生きやすい場所


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