存在を浮かび上がらせる吉村芳生作品
京都駅ビルでやっている画家・吉村芳生さんの展覧会に行ってきました。
これが色鉛筆画という衝撃‥‥。
(これは写真撮影OKの作品です)
10数メートルにもおよんでひたすら金網を描き続けたり、ジーンズの濃淡をひたすら機械的に番号で割り振って描き続ける作品は、超クレイジー。ジーンズの濃淡はまさにパソコンで0と1の集合体で仕上げていくデジタル画の仕組みでつくっていて、[これを機械がやってるんですよね?僕が描かなくても機械もやれますよね]という、なんていえばいいんだろう、いじわるで挑戦的なクレイジーさが伝わってくる。
一方でひたすら描き続ける自画像は自分の存在を確かめるようでもあったし、友人近影を描き続ける"friends"は、友人を描くことで自分を浮かび上がらせるものでもあったという。
なんでここにいるの?どうして存在するの?をひたすら問い続け、時にいじわるに、時にまっすぐに自分の存在を確かめるように絵を描いていた。
そして、大きな10数メートルにも及ぶ藤の花の絵はほんとうに見てるだけで涙がこみ上げてきた。小さな葉のひとつ、茎のひとつ、蕾のひとつを省略せずに全てきらめくように描きあげていて、その描き方が凄まじくて。
わたしだったら省略してしまいそう。なかったことにしてしまいそう。小さな筋ひとつ。小さな実ひとつ。こんな大きな絵の中で、なくても成立しそうだなと思ってしまう。でも、こんな大きな絵の中で、吉村さんは一切省略しない。見てみぬふりしない。すべて描きあげる。あとになって、あの藤の花の絵は、東日本大震災で亡くなった一人ひとりのことを思いながら描いたと知って妙に納得した。身を削るように描いたんだろう。ひとつひとつに命が吹き込まれてるようなきらきらした絵だった。
わたしはマーケティングコミュニケーションが専門で勉強し実践しつづけてきたけど、その世界では[どんなにいいものでもなにも言わなければ売れない。商品やサービスがよくたってそれが聞こえて見えなければ意味がない]がいつもの決めセリフだ。
でも、見えなかったらなかったことにされてしまうのか。聞こえなかったらなかったことにされてしまうのか。かすかなものを見つめ続けたい。聞こえづらいものに耳を澄ましたいし、見えづらいものを見たい。[その他大勢]とくくられてしまいそうな一つ一つを照らし続けた吉村芳生さんの作品にたくさんの勇気とクレイジーさをもらった。
京都では6/1まで!
https://bijutsutecho.com/exhibitions/3942