感情の解像度を磨く必要性
これは疲れた。疲労困憊。フラフラする。何も感じないように目を閉じて、感情を閉じる。感じようとするとそれでいっぱいになって崩れ落ちてしまうから。何も感じなければこの局面も泳いでいけそうだった。10年くらい前、東京に住んでいた。120%の乗車率の満員電車。空気の薄い東西線。汗とタバコの井の頭線。感じたら居たたまれなくなっちゃうじゃん。次から次へとやってくるメッセも電話も、いっこいっこに感情移入してたらきついじゃん。
でも、本当はわかってた。感じなくなったら、人をモノのように扱ってしまうということ。自分をモノのように扱ってしまうということ。表には現れないだれかの背景に思いを馳せる気力も、信じて待つ胆力も失われてしまうということ。そして、人をモノのように扱ったら、次はその人が誰かをモノのように扱うということ。そうして連鎖していくこと。本当はわかってた。
東京は大好きだったけど、京都に住むようになった。さわさわと揺れる葉も、虫も、川で普通に水浴びするシカもヘビもいた。夏はじっとりと暑くて、冬は芯まで凍てつく寒さで、はらはらと雪が散って消えた。
ちょっとまえは商品を選ぶパワーもなくて無◯良品ばかり買っていたわたしなのに、京都のおうちの近所にあるファンキーな八百屋や、宝島のような本屋や、小物が山と積まれたカフェで時間を過ごすようになった。がっかりするようなハズレ商品もあったけど、思いがけない宝物にも出会うことも増えた。びっくりするくらい理不尽な店員さんもいたけど、友達と呼んじゃってもいいくらいの店員さんに出会った。たまに観光客ラッシュに遭遇することはあるけれど、満員電車にはとんと縁がなくなった。
自然も文化も融合したようなこの町で、感じなくなるのはもったいなかった。
ハタと、不感症になっていたのだな、と気づく。
そうして、大切な本のこの一節を思い出す。
目の前の机も、その上のコップも、耳に届く音楽も、ペンも紙も、すべて誰かがつくったものだ。街路樹のような自然物でさえ、人の仕事の結果としてそこに生えている。教育機関卒業後の私たちは、生きている時間の大半をなんらかの形で仕事に費やし、その累積が社会を形成している。私たちは、数え切れない他人の「仕事」に囲まれて日々生きているわけだが、では仕事は私たちになにを与え、伝えているのだろう。たとえば安売りの家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚、化粧板の仕上げは側面まで、裏面はベニヤ貼りの彼らは、「裏は見えないからいいでしょ?」というメッセージを、語ることもなく語っている。建売住宅の扉は、開け閉めのたびに薄い音を立てながら、それをつくった人たちの「こんなもんでいいでしょ?」という腹のうちを伝える。また一方に、丁寧に時間と心がかけられた仕事がある。素材の旨味を引き出そうと、手間を惜しまずつくられる料理。表には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手に、「こんなもんで」という力の出し惜しみはない。このような仕事に触れる時、私たちは嬉しそうな表情をする。なぜ嬉しいのだろう。(略)「こんなものでいい」と思いながらつくられたものは、それを手にする人の存在を否定する。人々が自分の仕事をとおして、自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合うような悪循環が、長く重ねられているような気がしてならない。
『自分の仕事をつくる』西村佳哲
このまえがきは、いつも、10年経っても、わたしの心にじわりと入って座り続けてくれる。
いま、パートナーが「 #磨け感情解像度 」というテーマでnoteのコンテストを主催している。不思議なものだ。感情から最もかけ離れているんじゃないか?と思っていた人が、「磨け」とまで言って、感情をテーマにする。10年前の彼だったら「オッケー。で?感情の解像度を上げる必要性は?目的は?🔪🔪🔪」なんて、わたしに詰問してたんじゃないの?まったく、ずるいひとだ。好きですけど。
でも、やっぱりいまでも、「感情の解像度を磨く必要性」について疑問符をおくひとはいるんじゃないかなと思う。だから、この文章を書いてみた。
感情の解像度を磨くことは、「自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合う悪循環」を断ち切る。表には現れないだれかの背景に思いを馳せる力をくれる。自分のことを「こんなもん」と扱わないひとは、だれかのことを「こんなもん」と扱うことをやめる。どんな感情も否定しなくていいのだ。
そして、「こんなもん」として扱われなかったひとたちでつくる社会を、わたしは見てみたい。
よかったら、応募してみてください。6/30締め切り。
※これは、#磨け感情解像度 への応募作品ではなくただの応援noteです。ハッシュタグでいろんな記事を読んでみてね。いい作品、いっぱいあります。