軽妙な逸脱|『LETO』(キリル・セレブレンニコフ,2018)
ヴィクトル・ツォイを初めて目にしたのは、映画『ASSA』(セルゲイ・ソロヴィヨフ,1987)だった。エンディングで「変革を待っている(Мы ждем перемен.)」とマイクを握る姿が文化的革命の寵児そのものに見えて、大学二年生のウブな私はころりと惚れてしまった。
『ASSA』に感化されていた私は、もちろん熱を帯びた眼差しで『LETO』を見たのだが、良い意味で腰が抜けた。ツォイ含めるロッカーたちが、肩肘張らずに軽妙に演じられる。80年代後半のモスクワでロシアン・ロックが華開く直前のレニングラードが、軽快に、冗談めかして描かれる。
▼参考|『ASSA』のエンディングを飾るヴィクトル・ツォイ
アングラロッカーの自己撞着
本作は、人気バンド「ズーパーク」のリーダーであるマイクと、駆け出しロッカーのヴィクトルの愛憎入り混じる関係をゆらゆらと映しながら、1980年代前半レニングラードでアンダーグラウンド・ロックが息吹くさまを描く。
マイケルをはじめとするアングラロッカーたちは、自由を引導するスター性を求められる一方で、手狭な集合住宅と小ホール「文化の家」で窮屈そうに暮らしている。
また、アクチュアルな情感や慟哭は、母国語のロシア語ではなく、英語の歌詞に乗せてパロディじみて歌われる。バスの中で警察と若者が乱闘するときも、ヴィクトルの恋心が弾むときも、妻が寝取られたかもとヴィクトルが雨に打たれるときも、80年代洋楽ロック(T.レックスとかイギー・ポップとかルー・リードとか)にシーンが託される。
自己撞着からの逸脱
このような淡い葛藤は「解消」されるというより、物語からメタ領域に逸脱することにより「超越」される。80年代ロックとポップなコラージュシーンが媒介となり、リアリズムのお作法が解体される(極め付けは、呑んだくれミュージシャンが、試写会のスクリーンの向こうに消えていく)。作中で何度も「あったこと/なかったこと」(было/не было※)をヒョイヒョイと行き来するうちに、メインストーリーとは別のメタ的な内的世界を垣間見ることになる。
※コラージュシーンにはご丁寧に「не было(なかったこと)」と書かれたボードが掲げられる。
▼ポップなコラージュは、作中のあちこちにあしらわれている。
『LETO』は、神話化されがちなロッカーたちのバイオグラフィーを、軽妙に解体しながら、字義通りのコラージュを行う。
そうして現れるセンシティブなツォイ像は、お金に無頓着な自由の寵児!といったイメージをぐらぐらと揺らす。「現実/あったこと/было」をいま一度疑い、「虚構/なかったこと/не было」が起きていたらどうなっていたのだろうか…?と思いを馳せてしまう。
どうせフィクションと鼻で笑えないオルタナティブなバイオグラフィがここにある。
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ちなみに『ACCA(ロシア語表記)』は、モスフィルムの公式Youtubeチャンネルで英語字幕付きが公開されています。管見の限り日本語で観れるものは今のところなさそうです。