"understand"を諦めた先に|映画ログ『名もなき生涯』(テレンス・マリック, 2019)
映画について語る時、大学で聞きかじった映画理論を小賢しくも使ってみたくなる。この構図はこんなモチーフだとか、精神分析学的にはこんな無意識下を表現しているだとか…
そんな小賢しくちっぽけな私をすっぽりと包むほどに、この映画は「大きな」経験であった。
『祈り』のさざめき
本作は、実在したオーストリアの農夫であるフランツ・イェーガーシュテッターの物語である。第二次世界大戦下、ドイツに併合されたオーストリアで、ヒトラーへの忠誠と兵役を拒絶し自らの信念を貫いた彼の生き様を、約3時間にわたり描く。(詳細は公式サイトにて)
本作にはドイツ語がしばしば飛び交う。だが、字幕がない。無学な私は、理解できないささめきに苛立っていた。しかし、理解*することを諦めていくうちに、奇妙な感覚を覚えた。
風の音、雷の音、雨の音、家畜の声、痛烈な懺悔、憎悪の唾棄、嫉妬の嘲笑。自然音も人間の発話も、同列に聞こえてくるのである。
すべてが等しく何かを訴えかけているとすれば、それは「祈り」ではなかろうか。本作には、確固たる自信を以って信念を貫く者はいない。ナチスに迎合する者も、拒絶する者も、それ傍観する者も、選んだ道に赦しを得るために、祈る。
*決して多くはないセリフには "understand" という単語が効果的に差し込まれている。
耳を傾けること
言語による理解体系を超えた先にあった体験は、フランツを通して問われる真の「自由」とオーバーラップするものであった。
私が本作を通して垣間見た「自由」とは、身体が好きなように動かせることでも、思想を好きなように伝達することに限らない。踏み固めてきた己の道を闊歩しながらも、周りの「祈り」、すなわち赦しの懇願に耳を傾けることである。
頑なに兵役を拒絶するフランツに対し、あるオーストリア兵士が「俺を裁くな」と悲痛に吐き捨てる。フランツは、呵責に満ちたその懇願にただ耳を傾ける。フランツは、耳にする幾多の「祈り」を裁くこと(judgement)もなく、また、己がいかに裁かれるかに執着することもない。
「自由」を体現していたのは、妻のファニも同様である。フランツの祈りや抵抗を理解することを超え、"Whatever you do, I'm with you."(あなたが何をなそうとも、そばにいます。)と認める彼女こそ、耳を傾ける者であるのだ。
「名もなき」物語を理解すること
原題「A HIDDEN LIFE」の通り、本作の元となった逸話は、フランツが住んでいた村以外ではほとんど知られていなかった。その意味で、本作は、言葉にならざる物語を描いたとも言える。それゆえ、役者が語る言葉も、息遣いも、牧場のざわめきも全て等しく耳を傾けてしまうのかもしれない。
ただ耳を傾けること。理論体系に準拠して特定の意味内容を抽出する鑑賞スタイルだけではない、映画との向き合い方を教えてくれた作品だった。