伊那を旅して 3
旅先の音。
旅先できく音には、どんな音があるだろう。
たまに聞くのは、雨の音。
ずっと聞こえているのは、風の音。
今年の夏、裏磐梯で聴いた音は忘れることができなかった。それは、旅先のピアノの音。
***
絶景を眺めながら、悩んでいた。
だって楽譜がないんだもの。楽譜がなかったら、弾くことはできない。耳コピができない。ストリートピアノで弾くには、致命的だ。
裏磐梯のお土産屋さんにあったストリートピアノ。高校生くらいの子が素敵な音を奏でていた。楽譜無しで弾けることがこんなに羨ましいと思ったことはなかった。
結局、裏磐梯ではピアノを弾けなかった。nori satoさんに声までかけてもらったのに。諦めてしまった《弾く》という行為。
今、下にもストリートピアノがある。
リベンジじゃないのか。これからバイクで走った先にピアノがあっても、ずっと我慢して諦めるのか?
どうする?どうやって弾く?楽譜がないと弾けないんだよ。
***
絶景を眺めていたら、突然閃いた。普段はタブレットに出して弾いている。その楽譜をスマホに出して…弾いてみる。
A4の楽譜が、スマホの画面で見えるのか。
どうしてもやりたいと思うと、人は不可能を可能にするみたいだ。階段を降りて、ピアノの前に立つ。
旅先の好きな峠道にピアノなんかあったら、毎回寄っちゃうよ。最強の組み合わせ。
ストリートピアノに出会うと、いつも困ってしまう。音が出てこないのだ。何を弾けばいいのかわからない。
固まってしまいながらも、思い出したのは数日前、娘が「篠笛で吹ける曲ないかな」と話していたジブリの曲だった。
かろうじて、タイトルを覚えていた。
「この曲のサビを篠笛で吹くと、切ない音色が合うんじゃないか」と曲を覚えていたんだ。
そう思い、じっと目を凝らす。音符はちゃんと見えない。数日前の記憶と、五線譜のどのあたりに音符の丸があるか、見た雰囲気で弾く。
だから、ちょくちょく音を間違えるけれど…
小さな部屋にあるピアノの音を聴く人は、誰もいなかったけど、響く音を奏でられる嬉しさに心を込めて弾いた。
昔、イシノアサミさんが描いてくれた絵本。
わたしも旅先で誰かにピアノの音を届けられるようになるといいな。
***
ここは、峠のてっぺん。
バイクに戻ると、目の前が真っ赤だった。
振り向くと、ピアノがあった建物。
好きなところが増えた。
バイクを発進させる。
幸せな気持ちは体も温かくするのか。ポカポカした気持ちが身体に熱をまとわせる。
道へ出る時に、車のすぐ後ろに着いてしまったのに、それほど残念にも思わず、後ろをついて走る。
峠の下り道は、あまり覚えていない。さっきのピアノのことを思い出していたから?気づくと、山を抜けて周りは明るく、集落の中を走っていた。
R152。高遠を抜けて伊那に行く道。
前回、ここが気に入っていた。だから、とても楽しみにしていたんだ。
どこが好きなんだろう。
集落と集落をつなぐ道。山と山の間に挟まれた谷間のようなところ。でも、険しくはない。山までの間に田畑がある。開けている。その距離感がいいのか?
会津のR118を思い出す。こういう道が好きみたいだ。
右の山は所々黄色味を帯びていて、緑との混ざり具合がいい。陽を浴びて、ことさら色付いて見える。
正面から陽の光を全身に受ける。縁側で日向ぼっこをしている気分になってきた。ポカポカと暖かくて、眠気を誘う。頭のほとんどは弛緩しているのに、一部だけ起きている感じ。
悩んでいたことが、溶けてなくなっていくようだ。旅は心の洗濯と言うが、まさに脳みその洗濯をしている気分。こだわりが、嫌な気分が、文字通り溶けて消えていく。
全身で、陽の光を感じる。この暖かさ、当たったところの細胞が弛緩して拡張していくような感覚。夢の中にいるようだ。
目の前の車の後について、ただ走る。
縁側が幸せな気分になるのは、心が弛緩するからなのか。バイクに乗っていて、縁側にいる気分になるって、なんか不思議。
集落が消えても、また次の集落が現れる。
道は緩やかに右左と振れ、たまに横断歩道はあっても信号はない。
南西に向いて下っているのだろう。正面から陽を浴びている。風とは違うけれど、全身に感じる太陽からの光の圧。それがとてつもなく心地よい。
前に車がいるおかげで、気を配らず走ることができ、周りの景色を堪能できる。陽を受けた田畑、山々が色鮮やかで素晴らしい。
***
知っているポイントに来た。
高遠城址公園は前に家族と待ち合わせた場所。ここは、固有種の桜で有名らしい。あの時は知らず、中にも入らなかった。
前、満開だった桜並木を通り過ぎる。
信号が現れた。賑やかなところに出る。夢から覚めたようだ。急に下界へ戻ってきたような。ここで直進して、県道209へと進む。R152とはお別れ。
意識をはっきり保つ。ここからは、道が分かれる。車の後ろについていればいいわけではない。
三峰川橋のふもとで、二手に分かれる。わたしは左。ほとんどは右に曲がり、橋を渡っていく。伊那のまちへ向かう道。ナイスロードから伊那市へ入る道は、前回走ったからもう知っている。
知らない道を走りたいわたしは、左折後すぐ右へ曲がり、県道209から県道18へ入った。
県道18は山の中を抜けながら、川沿いに出た。
天竜川沿いの道。いつも家族で来ている道だ。ここだったのかと思う。人の車に乗って行くと、全く道がわからない。つまりこういうことかと笑ってしまう。
この道が、道の駅田切につながっているなんて驚きだ。でも今日は通り過ぎて、先に向かう。
田切を直進した後、R153を左折。この後はよく知っている道なのに、一つ手前で曲がってしまって、知らない道を走り、中央アルプス花の道へ。
第二の故郷。飯島町。
伊那は明日走ることにして、先を急ぐ。
どこへ向かうのか。
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