色気って奥行きかな 言葉で並べられた何かではなく 語らぬもの 引き込まれる 見えないけどある 花の香りに 奥まで入っていく🐝みたい その奥の何に惹かれているか それは。。。
探さなくていいよ 私のカケラ探さなくていいよ もちろん探してもいいんだけど 探すだけじゃ無くて 探さないもあるって 気づいていれば くつろげる あー探してたなと気づけば それだけ。
自我はいつも探してる 私というものを どんなカケラでもいいから 見つけたら、離したくない それが、私をカタチ作ると思っているから 探さずに、くつろいでいては 私は溶けて なくなってしまうかも だから、どんなカケラだって 離さない そう、私ってこうなのと 『あなたは悪くない』と聞いたって 採用したくない 私のカケラを留めておきたいんだ
自分が感じてる感覚って 照らし合わせるものがないと 捉えられない 最近、多くの人が 人から見られている事を意識している たくさんの人がいる中の 自分はちっぽけな存在だという思いがあると 知った そうなのか〜と聞いていたけれど 何度も出てくるその事に 違和感があった この違和感はなんだろう?と 思いつつ わからないなとも思っていた そっか✨ 私は 『私、以外いない』って感覚の時がある 小さな頃から 全部ひとつ的な 淡い?思いがずーっとあって 全てひとつであり
選ばずに 差し出す 何も隠すことがない 何が起こっても 傷つかないと 知っているから 私はそこにはいない 全て 受け取るだけで よかった #大丈夫 #安心
こんな事が流れて来た どのようでもいい 悪に見える事も 悪にしか見えないあの人も 元を辿れば同じ どう進んだって カーテンコール 喝采なのだから 幕が降りるまで 苦しんでも のほほんでも 追いかけても 戦ったっていい 思い煩うことなかれ 思い煩ってたのよ〜 あれもこれも 思い煩ってきたよね あーあ 疲れた 思い煩うことなかれ
お盆の出来事 13日、市内の私の実家に家族3人で行き 母の作ったお昼ご飯を食べ ついてるテレビ見ながら 何気ない時間を過ごして 帰宅。 何かの話から 娘「バーバってママの話、聞いてないよね」 私「最近は耳が少し遠いから、 余計に思うけど、 前からそんな気がしてた…」 娘「でもさ、ママは私にあんな風に しないよね、よかった もしされてたら、私、孫って続いちゃう」 私「あーやっぱりそうだったのか、なんか 泣きそうなんだけど。 私の話も聞いてほ
今、1番興味深く感じている事が この小野田さんのブログに書かれている 庭に生えてくる雑草とからだについて 事の始まりは 小野田さんのYouTubeを偶然見たこと その中で植物細胞水を知り これは大変なことを話してるぞ!と からだが反応 一緒にお話されていた篠原さんという方 北海道の方?そして調香師であると そこから数時間…もしかして あのビルのあのお店かも そこは私が十数年前バッチフラワーを習っていたお花屋さんの隣 当時、先生が あのご主人は私とは遠い星の宇宙人よ
日々のことって やってもやっても終わりがない 料理も作って食べて洗って片付けて 洗濯も着て洗って畳んで片付けて 掃除も履いて拭いてもまた汚れる どんなに退屈だろうが 生きてるだけで やることはいっぱいだ その淡々さに救われる ただ手を動かす ただ身体を動かす 陽が沈んだら 帰ってきた人と今日の出来事話して あーだこーだ言って お風呂に入って眠る ありがたいな
昨夜、いつものシェア会で いろんなお話聞いたり 話したりしてて あーこれをあきらめきれず ずっと大事に いつもいつも こっそり広げては 切なくなっていたんだな と思ったこと 『受け入れられない』 という思い込み 自分は変だからと 特別にして それも気に入ってたのかな それには切なさや さみしさがセットだった あきらめよ 変哲もなくても いいってさ〜 そして もう望んでやまなかった こんなお話も 自然に出来ているキセキ 受け入れられないって もう無かっ
ヌーソロジーを知った時 思ったことがこれ あーこれは 最高の暇つぶしだな。 難解であり でも、何処かで知っているような ヌーソロジーの半田さんは 60歳過ぎたら、みんなヌーソロジーやったらいいよ 終活だよ と話されてる もう、何処に行く必要もなく ただある日常を生きる その中にヌーソロジーがある。 豊かだなぁ〜と思う しあわせだ もう30年以上も前から こんなことが用意されていて すごいことだ 自分がはかって用意できることじゃない もう、風に逆らって進む
私の所に来る人は特別です、と言うスピリチュアルリーダーがイヤ。 いろいろ聞いて来たけどさ、これ系を一切言わない人とても少ない。 分けられて安心する不思議
朝目が覚める 夢と現実?を行ったり来たりの時 浮かんでたのが、のっぺらぼう 誰もが誰でもなくて 自分すら誰でもない 捉えられない 正気だと思ってる時は 言葉でくくられ 物と物が分かれたように見てる 正気か。 のっぺらぼう 怖いけど そんなことかも 誰でもないって それが嫌なのかもね 溶け合って、自分はいなくて 誰もいないって 起きるまでに うつらうつらと何度も覚めた時 見慣れた光景が 立体感なくて そこまでのっぺらぼうでさ 変な感じだった
今、忘れられないのは 後半 弟が車を止めて 美羽に会いたい。と言うシーン たくさんたくさんあった やるせない、伝わらない、伝わらない 狂いそうな気持ち 何度も切れる 張り詰めた糸 その糸が 何も解決していないけれど ふと、ゆるんで見えたシーン 人はどんな過酷で苦しみの時も そのままを渡しあえて 同じだということが 本当の気持ち ただそうだねと 今、そのままを感じられる その中にいる時 そのことが光にみえた 帰り道は 娘に会いたくなった。
1年前くらいから 時々参加しているzoomのお話会がある それは悟後Teaサロン、facebookグループ 始まりは禅サンガという オンラインサロンの参加者さんが いろいろシェアする場として はじめて下さった場。 今はオンラインサロンからも独立してるから 誰が参加してくれてもいい場になっている! そこは何を話してもいい場所 自己紹介もなく ニックネームで参加 顔は出してるけど 誰でもない私として参加できる いろんな皮を被らず むき身のあらわな心で話す 初めから話
最近感じてる 満たされるについて 毎日の料理にもそれが現れるなぁと 思ったのでちょっと書いてみます 目の前のたとえば、じゃがいも🥔を 物と見て皮を向く、切る、茹でる 味付けする 物であるじゃがいもと 調理する私は別 頭の中も別の事考えてたり バラバラだと 味もなんだかパッとしない けれど じゃがいもを洗う手と🖐️ じゃがいもになんの差もなく一体で 息をするように皮がむけていき 気づいたら味付けも終わっていた時 じゃがいもとダンスして 音楽に身をとうじていたら 一