都会の子どもたちは都会の英才教育を受けていると思う 心のフィルターの厚さについて
私がまだ普通に満員電車に乗って、いわゆるサラリーマン的な働き方をしていた頃、朝の通勤時間に考えることがあった。
それは、
都会の子どもたちは都会の英才教育を受けているのだな ということ。
もうちょっと具体的に言うと、
この子たちはノイズの多い環境で生きるために、幼い頃から心のフィルターを厚くしてきたのだろうな ということ。
私から見て都会の子どもたちは強い。
それは本当に強いのか、そう見えてしまっているだけなのかは分からないけれど。
朝の通勤ラッシュの雑踏の中にいると、
足を踏まれたりぶつかったり、そんなことは日常茶飯事だ。
その拍子にスマホを吹っ飛ばされることすらあったけど、そんなこと、わざわざ気に留めるのも煩わしいくらいのノイズの海。
そんな中では人は不感症になるのかな なんて思ったりする。いちいち心を振り回してたらとても持たないし、ただ心を閉じている方がよほど楽だ。
例えばこれが地元の駅だったら、人の足なんてわざわざ踏みにいこうと思わなければ踏めない。そもそも人がまばらすぎて、足を踏んだりぶつかったりなんてことは意図的にしか起こり得ないのだ。
だから万が一そんな事が起こったら、1日の中の結構な大ニュースになる。そもそも処理しなきゃならない出来事が圧倒的に少ない田舎という環境ではそんなものなのだ。
そんなノイズに晒されることに慣れていない私は、簡単に疲弊してしまう。私には、心のフィルターが育っていないのだ。どんな小さな出来事にでも簡単に心を振り回してしまう。自分で言うのもなんだがほぼ全透性なのだ。
でもこの子たちはそんな中で生きている。
少なくとも私にはそう見える環境で。
だから彼らは日常に起こるちょっとしたこと、それこそ駅の雑踏で足を踏まれるくらいのことはフィルターで除去できているんだろうな と、
幼い頃から心のフィルターを育ててきたのだろうな と思った。
彼らを見ているとたくましすぎて、そう思わずにはいられないのだ。
感心してしまう。感心してしまうと同時に、私はそうでなくて良かったとも思っている節があるが。
根本的に、受けてきた教育が違うとも言えるかもしれない。それは意図された教育ではなくて、環境がする教育。都会の英才教育。
朝の満員電車にたくましく揺られている彼らを見て、そんなことを思った。
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