「わかりあえない」の壁をこえる方法
人間関係におけるあらゆるトラブルや悩みは「わかりあえないこと」からきているのではないかと思う。
「わかりあえない」というのは、つまり自分と相手の「なにかがちがう」ということだ。性格や、考え方や、経験や、優先順位などのなにか、あるいは複数がちがう。
そのちがいに気がつくのは「わかってもらえない」「伝わらない」という悲しみや悔しさがきっかけだったりするのだけど、そんなとき、わたしは「把握したい」という思いがつよい性質なので、まず「なぜ伝わらないんだろう。この人とわたしは何がちがうんだろう」と知りたくなる。
まず、お互いに話の中で伝えたいことがなんなのかを探る。
出来事を情報として伝えたいのか、そのときの感情を伝えたいのか、相手の反応がほしいのか、自分が正しいと認めてほしいのか、ただ言いたいだけなのか。
それから、伝えてどこへ向かいたいのか方向性も探る。
相手に意見を認めて同意してほしいのか、一緒に良い方法をみつけたいのか、嫌な思いをさせて傷つけたいのか、笑ってほしいのか、聞いてほしいだけなのか。
これらの「趣旨と目的」は会話の大前提でありながら、話しながら本人の自覚がないことが多いので、普段は別に気にしなくてもいいけど、話がこじれそうな時は、この前提に立ち返るといい。
「わたしはつらかったことを聞いてほしいだけなのに、彼は問題をみつけて解決しようとする」というのはよくある話だけど、そのちがいがわかったところで、いったいどうすればいいというのか。
解決するにはざっくりと2つの方法があって、「方向や視点をそろえて話す」または「距離を変える」というのがあると思う。
「方向をそろえる」というのはどういうことかというと、たとえば仕事で意見がくいちがうとき、自分の意見を通したいのか、結果的にいい方向に向かいたいのかをそろえる。まあ仕事だと、言い出したときの本音は前者でも、後者で方向性をそろえることになり、自分の意見の重さを軽くして、他の人の意見と一緒のテーブルに出してフラットに見ることができる(というかそうさせる)。
そのときに、自分の意見だけを重く捉えていたことに気がつくと、相手に伝わらないだけではなくて、自分も相手の話を軽く聞いていたのだなとわかる。
話の向かっている方向をそろえて、安心して発言ができる場を作るのが大事だなと思う。
「視点をそろえる」というのはどういうことかというと、先日友人が「妻はいつも会話の主語が『We(わたしたちは)』で、ぼくはいつも『I(わたしは)』だったということに気がついたんだ」と言っていたのだけど、同じ目的でテーブル上に議題を出してはいるものの、なにかかみあわないのは「主語がちがった」のだという。
夫婦や家族のWe単位の「いい方向」と、自分がどう思うか、どうしたいかのI単位での「いい方向」はちがった。I単位同士なら問題はないけど、妻は相手の気持ちも「自分のこと」として汲んだ発言をしているのに、それに対して自分は「相手は相手」と切り離して発言をしていた。たしかにそれはせっかくふたりともよい方向に行こうとしているのにも関わらず、かなしいことになりそうだ。
まずは主語をそろえて視点を一緒にすることが大事だなと思う。
そして「距離を変える」というのはどういうことかというと、これは少々さみしい方法なのだけど、何がちがうのかを理解したうえで、理解はできるがどうしても譲れない場合や、どちらかがいやな思いをしてしまう場合は、関係性が近いとあまりいいことがないので、距離を取るといい。
物理的に距離を取ることもそうだけど、精神的に「自分と関係あるかどうか」という距離をとることもできる。たとえば、友人が不倫していると知って、本人は周りにどう思われようと関係ない とどっぷり恋愛脳になってしまっている場合、お互いに持論を出し合っても意味がないし傷つけ合うだけだから、そんなときは「考えが影響力のある距離」にいないほうがお互いにいい。そっと離れて様子を見るようにする。
あまりにわかりあえないとわかったときは、お互いに嫌な部分が見えないところまで離れたほうがいいと思う。
解決になっているようないないような感じだけど、「わかりあえない」とヨヨヨとコミュニケーションを諦めずに、わかりあえないのは前提でがっかりすることではないから、上記のような方法で、わかりあえないその先に進んでみてはどうかしら?という話。