「卒母」するために必要なことを考えた。
先日、毎日新聞の朝刊で連載されていた西原理恵子さんの漫画「毎日かあさん」が終了した。その理由は「お母さんが終わったから」だ。娘さんが16歳になったタイミングで「卒母」宣言をしたという。
この先、私は学校に行かせたりするなど経済的な支援は必要でしょうが、それ以外はもう要らないなって。この子たちはもう絶対に大丈夫だと思っている。「後は君たち好きにしなさい。私も好きにさせてもらうので」って。(中略)私も十分お母さんやったので、後は自分の好きな人生を送らせてもらいます。子育て終わり。お母さん卒業。各自解散!
先日読んだ西原さんの著書『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』のなかで、娘さんと衝突する場面が書かれていたけれど、甘えからくる反抗ではなく、親から自立するために必死にもがいている様子が伝わった。母である西原さんが、そのことをいちばん感じ取ったのだろうなと思った。
昨日も書いたように、こどもは、ある日突然おとなになるわけではない。だけど、いつまでもこどもでいることは本人にとっていいことではない。子育てはこどもがおとなになるための準備期間だと思うと、親はなにをしてあげたらいいのか。
「卒母」「卒親」と聞いて、子供の有無に関わらず、「自分が親から卒業できているか」とギクリとする人も多いのではないかと思う。また、親が自分から卒業してくれていないと感じる人も多数いるだろう。
親側だけの判断で「卒親」はできないし、子供だけが離れたくても難しい。物理的に離れてしまうことで強制的に自立したかのように思えても、精神的にはそうではないというパターンもよくある。
先日、友人が「自分にインストールされている『母の価値観』を取り出す作業をしたんだ」と話してくれた。それはとてもしんどい作業だったし、その友人は母との関係が悪いわけではなかったので、なおさら母の価値観を否定して追い出すようなことをするのがつらかったと言う。
そんなにしんどいのにそんな必要があるのかというと、わたしは必要だと思っている。
自分の考えていることや言葉がどこからくるのかというと、ほとんどがどこかで誰かが話したり書いたりしたことを受け取って、自分のなかに取り入れている。大人になってからは自分で選ぶこともできるけれど、子供のときに親の価値観を受け取っていることは無意識で、選ぶことができていない。
しつけや教育とは、そうやって親や社会がいいと思う価値観を与えてクセつけることだと思うので、もちろんそれ自体が悪いということではない。
けれど、他人と本当に向き合うとき、だれかと本気で価値観を交換するとき、自分が考えていることや正しいと思うことが、本当に自分のものかどうかわからなくなってしまうことがある。そんなときに、一度自分の中からよいしょと取り出してひろげて眺めてみて、「これは母の価値観だな」「こっちは高校の先生だな」「これは元カレのだな」と自覚することで、ものすごく他人を受け入れやすくなる。
指差し確認したらまた自分に入れ直してもいいし、いらないのだけポイしたらいい。都合よく自分の価値観を作ればいい。
親がこどもから卒業するのに、それまでの文脈がないと、こどもは「見放された」と思ってしまうかもしれない。こどもが親のためにがんばっていたとしたら、途方に暮れてしまうかもしれない。
親の影響なくこどもを育てることなど無理だし、いいと思うことを教えてあげたい気持ちはもちろんある。こどもが大人になるまでに親ができることは、自立するときに「これは母の価値観だ」とわかるように、わかりやすくタグ付けしてあげることかなと思う。
わたしは、「○○しなさい」「○○はやめなさい」と言わずに「わたしは○○だと思う」と言うように気をつけてきた。「これはわたし個人の意見です」とタグ付けをしていた。なので、小学生の時から娘はわたしと意見がちがうときに「あー、ママちん(わたしのこと)ならそうかもねー」「ママちんはそう言うと思った」などと言う。結果なにを選択するかはともかく、その意識のクセづけは自立への準備になっただろうなと思う。
現在娘は14歳なので、わたしは卒母まであと数年のプレ卒母だ。彼女の居場所や学費を優先する日々が終わったら、どうやって生きようかなと楽しみにしている。