同じ星の人、別の星の人

なんかわからないけど気が合う、またはどうにもこうにも気が合わない、という人に会ったときにいつも思うことがある。

多くを語らなくてもなぜだか言いたいことがわかる人に「同じ星の人」、どれだけ会話をしてもお互いに何を言ってるかわからない人には「別の星の人」だ、と思う。

ほとんどの人は別の星からきているので、ときどき同じ星出身の人に会えるととてもうれしい。共通言語を思い出したように言葉がたくさん出てくる。通じるのってこんなにうれしいことなんだなーと、遠いいつかの故郷を思う。

ただ、別の星といってもそれは無数にあって、気が合う/合わないの二分ではなくて、その星と星の距離によって通じる度合いがちがうような感覚でいる。

いつもそう思っていたことが、さっき読んだ『ちひろさん』の中で同じように例えているのを読んで、うれしくなってこれを書いている。

私たちは皆 人間という箱に入った宇宙人なんだ

「同じ人間だから」ってよく言うけど  一人一人みんな来た星がバラバラなんだから わかりあえないのが当然なんだ

理解できなくても 理解されなくても しょうがないじゃない 別の星のひとなんだから

 安田弘之 『ちひろさん ⑻』より


わたしは(きっと作者の安田さんも)「別の星から来た人同士はわかりあえないから諦めなよ」と言いたいわけではない。

わたしたちは同じ言葉を使っているけれど、実はちっとも同じではない。同じ言葉のはずなのに、人によって捉え方がぜんぜんちがう。発しかたも、受け取りかたも。だから、そのつもりがなくても誰かを傷つけてしまうことがあるし、誰かのなんでもない言葉に傷ついてしまったりする。

相手への思いやりや想像力が欠けていることがそのまま言葉にでてしまうし、自分への思いやりや自信が欠けていると曲がった受け取りかたをしてしまう。

言葉はひとりひとり別のもので、それぞれ自分の言葉をもっている。(誰かの言葉を自分のものとして使ってしまう人もいるけど、それはまた別の話… )


言葉は、気持ちをのせるのに便利なようで、言葉にしたとたんに自分でもつかめなくなることはよくある。だれかの言葉の背景がよく見えずにつかめないことも。

だから理解できなくても理解されなくてもしょうがない。

でも、理解しあえないからといって、真偽や、善悪や、好き嫌いで分けてしまうのはとてももったいないことだと思うので、それぞれに距離を保ったまま存在を認め合いたいし、距離があっても怖がらずに伝えることは続けたいと思う。


余談だけど、結婚相手にどんな人を選ぶのかを見ると、その人が別の星の人との交流や通訳のためにやってきたのか(または修行)、同じ星の人に会いにやってきたのかがわかっておもしろいなと思う。


それでいうと、わたしはこれからいっしょに生きていく人たちは同じ星の人がいいのだけど(あーちんも運良くおなじ星出身だと思う)、この人のことはよくわからないしたぶんずっと理解はできないけど好きだなーと思う人もたくさんいる。

わからないものを避けたり批判したり分別して、わかるものだけに囲まれていた方が楽かもしれないけど、わたしはいろんな星からやってきた人みんなに「それぞれ楽しく行こうぜ」と言いたい。

近くにいるとお互いにしんどくて一緒に進むことができなくても、すこし離れたところからお互いを祝福し合うことはできる。わかりあえなくても“グッドラック” と笑ってハイタッチしたい。


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