こんな気分は、春一番にのって消えてゆけばいいのに(炎上に思うこと)
炎上記事とか芸能界のゴシップとかTV番組へのクレームとか、なんだかみんな怒ってるよねえ、と最近よく思う。
見ていると、同じものを見て怒っていても、それぞれの怒る理由がひとりずつちがう。
世間の声として怒っているように見えて、ほんとうは完全に自分ひとりだけの声だ。
怒りの矛先は、記事を書いた人や渦中の芸能人じゃなくて、自分のなかの、過去の記憶や経験なのだと思う。
その記事やゴシップを目にする前から、すでにそのひとは怒っているのだ。火がつくのを待っていながら、ずっと、怒っているのだ。
その反射のような怒りを否定はしない。
それは誰もが持っているものだと思うし、傷ついたら怒ってもいい。
ただ、自分が何を見ると、何をされると怒るのか、どこに怒りのスイッチがあるのかを知っていたら、自分に直接害がないものや、会ったこともない誰かに対して、怒りをぶつけるということはしないのではないかと思う。
怒りを、正しい方向に向けてほしい。
知らない誰かがポイと投げたパンに向かって、あれはナイフだと言って傷つきにいかないでほしい。
自分のまわりのだいじな人とパンをわけあって、おいしいねと言っていたい。
わたしの場合は、自分とは真逆の意見や考えを持った、自分が不愉快になるような人がいたら、できるだけ離れたい、と思う。
怒りの言葉など言ってはあげない。相手の意見を変えたいとも思わない。MAXで関わらない方法をとる。直接苦情を言うなどもってのほかだ。
わかり合いたいとも思わないし、間違っているとも思わない。ただ、自分とは関係のない人でいてほしい。「この人が自分の親じゃなくてよかった」とか「水虫になればいいのに」とか思うけれど、たぶんお互いさまだから言わない。(親しい人とおもしろおかしく話すのはアリ)
「多様性を受け入れる」ということは、なんでも許さなければいけないということではないと思う。
多様性を受け入れるには、自分をよく知る必要がある。
他人を認めたうえで、スキなものはスキ、イヤなものはイヤ。なにを受け入れるかは自分で決めていいし、自己責任だと思う。
その自己責任こそが自由で、向き不向きを自覚して、目が合う場所に行くことができるのだと思う。
先日、わたしとあーちん(13歳)で
自分のスイッチが押されたからという理由で、なにかに怒ることについて、「それがどんなに正義感からくることだとしても、とばっちりだよね」という会話のフィナーレがこちら。(右の緑がわたし、鳥のアイコンがあーちん)
あーちんは、ほんとうにすごいよ。
むしゃむしゃ。