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本当はわかってる、二度ともどらない美しい日にいると(オッケーよ)

学生の頃の友人との間で、よくある話題で「もしもどれるなら、何歳にもどりたいか」というのがあるが、わたしはどこにももどりたくない、と断言できる。

「今がいちばん楽しい」というと完全なリア充のようだけれど、というよりも「もっと先に進みたい」という気持ちのほうが大きい。もどるなんてとんでもない、と。

わたしは「ああすればよかった」「こうあってほしかった」という、後悔や反省を、ほとんどしない。(反省しなければいけないこともあっただろうけど!)
失敗の原因がなんだったのか考えることはあるけれど、わかったら、それでおしまい、はい次! だ。

この感覚は、わたしのせっかちさとも関係していると思うのだけど、わたしがシングルマザーとして今までどうにかやってこられた、大きな要素でもあるな、と思う。

かと言って、確固たる目標や目的があるかというと、それもない。ただ、「でも進むしかないでしょ」「まだ続きがあるんでしょ」というだけだ。

そして極端なことに「だってわたし、死ぬでしょ」という思いが、こどものころからいつもある。

なぜだかわからないけど、そのことを知っている、という感覚がある。(他の人がどうかは知らないけど、どうなんだろう)


「人と比べないでほしかった」

昨年の初夏に亡くなった友人と、亡くなる前の1ヶ月間、さいごのコミニュケーションね、とメールでいくつもの Q&A を出し合った。

「こどものころ、親にしてもらってうれしかったことと、いやだったことは?」という問いに、いやだったことはね、と彼が答えたのがそれだった。

わたしは「そっか、じゃあ次はきっと親になって、人と比べない子育てをするだろうね」と言った。(彼は今回は独身だった)

ほんとうに、次がある、続きがあると思いたいのだ。


わたしがこわいのは、死ぬことより、いつか終わるとわかっているのに、出し惜しみしてさいごに後悔することだ。

後悔は、自分へのダメ出しでしかなくて、さいごにそれでは、せっかくがんばって生きていた自分がかわいそうだ。

たとえば「シングルマザーだから人より苦労する」というイメージで「大変だね」と気遣ってくれるのはうれしいのだけれど、「みんなそれぞれ大変だよね」と思うし、誰と比べて大変だと思うのかわからないけど(まあ、たいした意味はないだろうけど)、「どんな人もみんなひとりいっこだから、わからなさはお互いさまだよ」と思う。


この、どんな人もみんなわからないまま進んでいるんだということ、進んでも終わりがくるんだということを知って、それでもきっとずっと続くものがあるはずだと思うことで、ひとを、だれかを、愛おしいと思うのかもしれない。

こんなこと書くつもりで書きはじめたんじゃないのに、やたら極端なことを書いてしまった。

おしまい、はい、次!



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桜林 直子(サクちゃん)
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