夢はなくとも、地図を描く。
「夢」をもてないことは欠損だと思っていた。
「おとなになったら何になりたい?」「やりたいことはなんですか?」という質問に、いつもどれだけ考えても「ないんです」としか言えない。あるべきものがないのか、あるけど見えていないのか、わからないけどとにかく自分の中に見つけることはできなかった。足りないのは計画性か、それとも想像力かと悩んだりもした。
さっき、ほぼ日の糸井重里さんの文章を読んで、深く頷いた。
大人になると「夢」を失ってしまうけれど、子どもだとか若者だとかは、「夢」でいっぱいであるとか、何度もそういうことを言われていると、「夢」を持っていないじぶんは、まさしく「夢のない人間」だと思うしかなくて、じぶんを否定的に見るようなことになりかねない。でも、そうなりたくないから、「夢」そのものを否定したくなるわけです。
2017.9.25「今日のダーリン」より
わたしは中学2年生のとき、「将来の夢」という作文を書くことを断固拒否した。夢は設定するものではないし、設定するにしても選択肢が少なすぎる 。書くことには力があるので、書いてしまったことに囚われてしまうかもしれないと怒っていた。
とは言え、既存の進学方法は「先に進路を決めて、設定したゴールに向かって頑張る」というやり方だったので、仕方がないとも思う。ただ、わたしにはそのやり方がまったくわからなかった。
大人になってからわかったことがいくつかあって、ひとつは、「これをするぞ」と決めて進める人と、進みながら見つけていく人がいるということだ。
ゴールの設定を先に決めて、そこに向かって道をつくって進める人、つまり「夢」がもてる人は、まだ見ぬ何かが自分のために良いものだと、自分を受け入れてくれると信じることができる。宝島はあるのだと信じて行き先までの地図を描ける。
進みながら見つける人は、まだ見ぬ何かよりも目の前のものに何を思うかの自分の判断を信じている。どこに向かっているかはわからないけどいい匂いのする方へと進み、歩いた記録をあとから振り返るとそれが地図になっている。
(その他に「これをするために生まれてきた」というような、何をしていようが才能に押されてこの島にたどりついてしまうという神様直結ショートカットタイプもごく稀にいるけれど、それは特例とする)
「夢」がもてる人に向いていることは、進学や就職だけではないなと感じていて、例えば雑誌で見た世界のきれいな風景やおいしそうな食べ物の写真を見て「ここに行ってみたい」と思えるかどうか。例えばテレビで見たすてきな夫婦をみて「こんな結婚したい」と思えるかどうか。つまり、ゴールの設定から自分のなかから「欲望」を生み出せるかどうか。
糸井さんはこう続けて言う。
おそらく、多くの人が「夢」と言ってることのほとんどが「夢」じゃなくて「欲」だったりするんですよね。「夢」は、「あ、これか!」と思うようなものです。見つけただけで、勇気になるようなものだと思います。
2017.9.25「今日のダーリン」より
「あ、これか!と見つけただけで勇気になる」というのは、そこに向かって歩いていたわけではないけれど、進んできたら目の前に現れるもので、そのときに「このために歩いてきたんだな」とわかるものだと思う。遠くにあるものを「あれがほしい」と思うことが先ではなくて、目の前にして手にしてはじめて「これがほしい」と思う。「やりたいこと」ではなく「あとはやるだけのこと」が見つかる。そこでようやく手に入れるために動く。(糸井さんは「これがあったらいいな。だれがやるんだ? あ、俺か」というものだとよく言っている)
では、それはどうやって見つかるのか。
恋愛に置き換えて言うと、「恋人がほしい」というゴール設定をして、そのためにたくさんの人に会ったり、友人に宣言して何かの機会に思い出してもらったりすることで、恋人はできやすいかもしれない(その先のことは知らない)。恋人がほしいと思っていないはずなのに、あるとき「あ、この人がほしい」と思って突然恋人ができる というのはあまりに難易度が高い。
「夢」をもてない、「やりたいこと」がない、という人の中には、それは「どこにもない」と決めつけていることがある。「自分には用意されていない」「しあわせになってはいけない」とまで思っている人もいるだろう。それでは、あるものもないと決めてしまっては、いつまでも見つからない。
恋愛でいうと「わたしの恋人になる人なんているわけない」と思っていると、その関心のなさが前面にでて逃す一方なので、ひとりひとりちゃんと向き合って関心をもって接するほうがいい。
夢がもてないとしても、進んでいたらちゃんと「ある」と信じることが大事なのだと思う。目の前のことにちゃんと向き合って進んでいたら、逃げずに正直に歩いてきたら、広場があるよ。そこに着いたらわかるよと言い聞かせて進むしかない。
宝島への地図が手の中になくても、今この瞬間も新しい地図をつくっていると信じて楽しみに進む「夢」がもてないわたしたちは、想像力の欠損どころかだいぶロマンチストなのだろう。