書くことはこわくない(オニオンリング宣言)
わたしたちは、あらゆる思いこみのなかで生きている。いいとかわるいとかではなく、ほとんどのことは思いこみだ。ただし、その思いこんだものだけが世界だとも思う。
たとえば、わたしはこどもの頃、日焼けも即吸収して真っ黒になるタイプで、それは次の夏まで続くので、常に肌の色が黒かった。こどもにとって夏の「真っ黒」は誇りですらあったので、コンプレックスではなかったけれど、とにかく「自分は地黒だ」と思っていた。
高校を卒業して、はじめてデパートの化粧品売り場で美容部員のお姉さんにファンデーションを選んでもらったとき、「色が黒いので濃いめのを」と言うわたしにお姉さんが選んだのは、標準色より1トーン明るい色のものだった。「お客さまはお肌が白いので」と言われたときは、ほんとうに驚いた。
友人は、毎年大量のリンゴをおすそわけしてくれる近所の方に、母親が「娘がリンゴが大好きなのでよろこびます」といつもお礼を言っているのを聞いて、自分がリンゴが好きだと思っていたという。大人になってからそうでもないことに気がついて、驚いていた。
別の友人は、タピオカが大キライだったのに、なにかの卵だと思っていたのが間違いだ(植物由来のでんぷん)とわかって以来、大好物になっていた。
じぶんの目に見えているものと他人が見ているものは、ちがう。
特に自分自身のこととなると、その差は顕著にあらわれる。「わたしはこういう人間だから」という評価は、大体においてとんちんかんだ。若いころにたったひとりに言われた言葉や経験に、おおきく左右されてしまう。そしてその思いこみを変えてくれる、というか更新するのもまた他人だ。そのときに「じぶんが変わった」と思うのだけれど、変わったのは自分自身ではなくて、自分を見る目や見る角度だけだったりする。
だれかの言葉や1冊の本によって「自分を変えてくれた」と思えるには、形を変えるための柔軟性が必要だ。思いこみをなくすことはなかなか難しいけれど、何度でも更新できるやわらかさは持っていたほうがいいように思う。
しかし、それは年齢を重ねるごとにかたくなって、世間を、社会を、自分を「こういうものだ」とうごかせなくなってきてしまう。そして不思議なことに、その思いこみを正しいと証明することばかりが起きる。正確には、そういうことだけが目に入るようになる。
自転車を運転しているときに、向こうから来る人を避けようとしても、その対象のことを見ているとむしろ寄っていってしまうことがある(おばさまがよく突っ込んでくる)。見ている方に進んでしまうものなのだ。
わたしは30代に入るころから、この視野の広さとやわらかさを持ち合わせるように気をつけていた。だけど、今年になって文章を書くようになって、じぶんの考えを文字にすることで、そのやわらかさが本物なのか、ただの希望なのか、わからなくなるときがある。文章を書くときに、ウソをつかないよう自分に向き合っていると、たまねぎの皮をむいていたはずが、どんどんはがしていつの間にか真ん中にたどりつき、そこになにもないことに気がついたりする。ふりむくとそこには大量のたまねぎがあるので、それでなんとか調理してみるものの、芯がなかった驚きはなくならない。そのくり返しだ。いったい誰に何を書いているのかわからなくなる。
わたしがいうのはおこがましいけれど、書くということはそういう作業なのだなと思う。できるできないは別として、そういうものなのだと。やわらかさだけでは形にならないし、もっともっとと向き合わずにいられない。向き合い続けて奥へ奥へ入り込んで、気がついたらじぶんが味方なのか敵なのか、じぶんの目なのか誰かの目なのか、倒したいのか抱きしめたいのか、わからなくなるのではないか。
世界は、じぶんの外側と内側の両方にひろがっている。じぶんの外側から受けとったものを、内側にしまって反映させる。内側から出てきたものを通して、外側を見わたす。思いこみはフィルターとなりレンズとなって機能する。
正直にいうと、わたしは自分だけの世界を見るのはもういい。ほかの誰かに見せてほしいし、誰かといっしょに見たい。芯に特別な何かがなくてもいい。どこにでもあるたまねぎで、ちょっとだけおいしいものをつくって振る舞いたい。あつあつのオニオンリングをめざすことにする。
わたしは、やわらかいままで、笑っていたい。誰とも戦わず、世界に向かってハローなんつって手を振りたい。書くことはこわくない。そう思いこむことにした。
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