「わからない」にも価値がある
子どもの頃から「話が通じないこと」と「誤解されること」が苦手だった。
会社で働いていたとき、仕事柄(パティシエ)話すより手を動かすことが大事とする人たちが多かったので(あと、いつも立ち仕事なので、座ると眠くなって話を聞けない)、全員に何かを伝えようとするときはだいぶ苦労していた。どんな人でもわかるように、誤解のないように、わかりやすく伝える工夫を繰り返ししていた。
会社を辞めて独立してから、他の業界の人たちとお話をするようになって、話がすんなりと通じることにおどろいて感激し、それまでかなりコミュニケーションをとるのがむずかしい中で奮闘していたことに気がついた。
わたしは社会経験がかなり野良で、大学も行っていなければ上司がいたことがほとんどなかったので、誰かに教わる経験がなくすべてが独学で、難しい話がぜんぜんわからない。
だから、昨年いろいろな属性の人たちが集まるコミュニティに参加したとき、いちばん困ったのは「むずかしい言葉や言い回しで話されるとまったく理解できない」ということだった。会議ではそれぞれがいつも仕事で使っていると思われる専門用語が飛び交い、どこか「賢さ合戦」のようにどんどん難解になっていくように見えた。
わたしは会議の度に何十回も「わからない」と言った。「何の話をしているかわからない」「そのカタカナの用語がわからない」「どうしてその順番ですすめるのかわからない」
わかったふりをしていたら、話がどんどん難しくなっていくし、もしかしたら他にもわからないけど言い出せない人がいるかもしれない。わたしが「わからない」と言うのは、もちろん知性や知識が足りないこともあるけれど、「伝えたいなら、わかるように話して」というメッセージが強かった。「わからない」と言ったり質問をすることで、その場の話のハードルを下げたかった。
「わからない」と言うと、頭のいい人は言い方を変えてちゃんと教えてくれる。自分の知識を見せたいのではなく、相手に伝えようと話しているから、「そっか、この言い方だとわからないか、ごめんね」とむしろうまく伝わらなかったことを謝ってくれたりもする。
「わかるやつだけわかればいい」だと伝わる人数が減るので、たくさんの人に伝えたいなら、わからない人の気持ちも知らないといけないから、わたしの「わからない」も役に立った。
学生のころを思い出すと、質問のタイミングを逃してわからないまま進んでしまうと、「なにがわからないのかすら、わからない」という状態になってしまう。わたしは頭が良くないので、勉強のポイントはいつも「どこがわからないかを把握する」ことだった(我ながらレベルが低い)。
それと、「何言ってるかわからない」と話が通じないことや、ちがう意味に受け取られて誤解されることが苦手だったから、言葉をうまく使えるようになりたかったのだと思う。
子どものころから「わかりたい」「伝えたい」という気持ちがつよかったのかもしれない。
得意なことは案外自分では気がつかないと言うけれど、わたしの「わからない」が結果的に役に立って、頭のいい人たちの中にいても、おバカにしかできない役割があるんだなとわかってうれしかった。
わかりあえないことを前提に伝えようとすることが大事だし、わからないことも価値になるよ という話。