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タイムマシンでひねくれた正直さをとりもどした話。

そういえば、小学校に入ったくらいから毎日日記をつけていた。「きょうは、スイミングスクールに行きました。たのしかったです。」などというなんでもない日記で、誰かが読むわけでもないので、思ったとおりに「なにもなくてつまらない日だった」とか「◯◯ちゃんはなんであんなにいじわるなんだろう」などと書いていた。


小学校5年生で転校したとき、あたらしい学校で担任が国語の先生だったので、日記を書いて先生に提出して読んでもらうという習慣があった。毎日提出してもいいし、書いたときだけでもいいし、書かなくてもいい。その日の下校前の帰りの会で、先生が気に入った日記をみんなに読む時間も設けられていた。

わたしはもともと毎日日記を書いていたものの、先生が読むなんて考えてもいなかったので動揺したけれど、せっかくなので毎日提出した。先生は赤ペン先生よろしく一言コメントを書いたり、よかった部分に線を引いてくれたりした。

他の子達がどんな日記を書いているかは知らず、わたしはいつもどおりに思ったことを書いていたら、ある日、先生がみんなの前でわたしの日記を読んだ。それはクラスメイトに関するちょっとした疑問のようなことを書いたものだった。わたしがクラスメイトにもの申すかたちになり、それについてどう思うか、議論がはじまった。日記に書いただけなのに、まるで教室で発言したのと同じ扱いになってしまったことに驚いた。

また、別のある日の日記に、友達同士がケンカをしていることに対しての感想を書いたら(たしか「なにに怒っているかわからない」とか「どちらの味方につくのか他の友達を試すことはやめてほしい」など冷めたことを書いた)先生からのコメントに「こどもらしくないなぁ。どうしてもっと素直に感じられないかなぁ」と書かれていたのにも驚いた。

自分の考えが正しいかどうか知りたくて書いたわけじゃないし、先生にこどもらしい姿を見せるために書いているわけでもないのにおかしいな、と思った。と同時に、ほんとうに思ったことを書いて他人に見せるのはよくないことなんじゃないかとも思った。他人が読むのがわかっているなら、だれかが気分を害することは書いてはいけないのだと。

こどものころのわたしの本音は不満や不安しかなかったし、先生やクラスメイトが共感できるものでも褒められるものでもなかったと思う。日記に対する反応は、自分の考えに害があるのだと蓋をするには十分な理由があった。


わたしはおとなになっても、ほんとうに思っていることを書いたり言ったりするとき、どこかで「イヤなものを見せてごめんね」と思っている節があった。わたしが正直になると誰かがいやな思いをすると思ってビクビクしていた。もしくは「わかってくれなくてもいいよ」と、自ら嫌われるような態度をとったりしていた。


今では、まず自分が正直にならないと相手の正直もでてこないとわかったし、それでもし傷ついてもダメージは最短距離だと知った(落差が大きいので急降下でもあるけれど!)。どうせ全員とはわかりあえないのだから、せめて自分は正直でいて、それに価値を見いだしてくれる人といっしょにいたいと思う。教室で批判されないように大勢にあわせて薄いウソを重ねていくことは望まないし、クソリプも真に受けない。

そして、こどもが持っているものを、いいものとも悪いものともせずに「きみはそれ持ってるね」と自覚させてあげたいと思う。「いつかきっと役に立つから、大事に持ってなよ」と言いたい。蓋をしてなかったことにしないで、知っててほしいと思う。こどものころは悪いものに見えてハズレだと思っても、おとなになったらその使いかたがわかったり、つかう場所が見つかったりするから。必ず。

同じように、この世の中は、世界は、いいものでも悪いものでもなくて、その見方と使い道によってどうにでもなるんだよと言いたい。

どこかに置いてきたままおとなになってしまったひとにも、ちょっと取りにもどって掘りかえしてみてほしい。それは、宝物みたいにキラキラとした価値はないかもしれないけど、きっとそんなに悪いものじゃないはず。

これを自分探しと言ってもいいけれど、こどものころに戻ってそこからまた歩きだせるこれは、タイムマシンでもあるという大発見。

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桜林 直子(サクちゃん)
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