全部ただの思い出で、思い出がすべてだという話。
すごくうれしいことがあったとき、なぜか「あまり調子にのってはいけない」と思ってちゃんとよろこぶことができなかったり、かなしいことがあったとき、「別にたいしたことではない」ということにしてちゃんと悲しむことができないことがある。
事実と感情を分けて、すこし離れたところから見て「これが悲しかったんだな」などと理由をつけて溜飲を下げたりする。
かと思うと、感情がおおきく動かない日常のとるにたらないシーンの中で「あ、この瞬間をあとで思い出すだろうな」と思うことがある。
友達と一緒にごはんを食べていてTシャツの胸元にこぼしているのに気がついて「落ちるかなー」と心配したそのシミの形とか、お酒を飲んだ帰り道に数時間ぶりにひとりになった瞬間にみた電車の中吊り広告の見出し文とか、キッチンで果物の皮をむきながらカウンター越しに聞こえてくる友達が話す素直な声と手についた甘いにおいとか、廃墟かと思っていた古い団地に洗濯物が干してあるのを見て誰か住んでるのかなと思ったこととか、甘いと思って口に入れたひなあられがしょっぱくて驚いたこととか、出しすぎたハンドクリームを分け合って同じにおいで別々の電車に乗ったこととか。
なんだか自信がなくなって、何もできていない、誰とも目が合わない、と自分が透明になってしまったような気がするとき、自分を励ますのはいつもそういういつかの思い出だ。思い出だけは誰にもじゃまされないし奪われないからいい。
極端なことを言うと、生きている間にできることは思い出を作ることだけだとも思う。だから、今していることの意味とか、起きてしまったことの理由とか、そういうのはもういっそどうでもいいから、「思い出をつくっている」という意識だけで今を見る という方法をとても気に入っている。
わたしの大好きな小説の中にもこんな一文がある。
「生きていることには本当に意味がたくさんあって、星の数ほど、もう覚えきれないほどの美しいシーンが私の魂を埋め尽くしているのだが、生きていることに意味を持たせようとするなんて、そんな貧しくてみにくいことは、もう一生よそう、と思った」 吉本ばなな『体は全部知っている』より
これは、疲れきった娘がお父さんが作ったオムレツを食べたとき、懐かしさのあまり人生に意味があるような気がしてしまって、それを打ち消そうとするセリフなのだけど、本当にそうだな、意味はたくさんあるんだけど、いちいち意味をもたせないことって必要だよなと思う。
だから、つい理由があるように思ってしまう大きくうれしい出来事やかなしい出来事も、意味などないように思える小さく些細な日常も、過ぎてしまえばぜんぶ思い出になるから、どれもそのときにちゃんと味わって、なかったことにしないで愛おしいエピソードとして積み重ねていこうと思う。
そして、おいしいな、たのしいな、うれしいな、すきだな、という気持ちには理由なんかなくていいし、その気持ちを伝えることが、誰かの思い出になっていつか力になるかもしれないから、どんどん伝えていこうとも思う。
全部ただの思い出で、思い出がすべてだからね。