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なぜ学生最後の一日に『岳物語』を読みたかったのか

※小説のネタバレが嫌な人は回れ右でお願いします。


1998年の5月26日、私は川崎市中原区で生を受けた。私の父親は机に向かうことよりほうぼうを遊び回ることに青春を捧げていたらしく、当然本などはあまり読まないタチらしかった。一方その兄は読書好きで自前の本棚をいくつもパンパンにしている人だったようで、その本棚からたまさか父親が手に取ったのが『岳物語』だったという。

『岳物語』とはエッセイストの椎名誠が綴った息子との日常物語である。本編と続編の2冊からなっているのだが、それぞれの紹介文を引用すると

山登りの好きな両親が山岳から岳から名付けた、シーナ家の長男・岳少年。坊主頭でプロレス技もスルドクきまり、ケンカはめっぽう強い。自分の小遣いで道具を揃え、身もココロもすっかり釣りに奪われてる元気な小学生。旅から帰って出会う息子の成長に目をみはり、悲喜こもごもの思いでそれをみつめる「おとう」…。これはショーネンがまだチチを見棄てていない頃の美しい親子の物語。著者初の明るい私小説。(『岳物語』BOOKデータベースより)

シーナ家の長男、岳少年。男の自立の季節を迎えている。父子の濃密で優しい時期は終わろうとしていた。ある日、エキサイティングなプロレスごっこで、ついに岳は父の体を持ち上げたのだ。ローバイしつつも、息子の成長に一人うなずく椎名おとう。カゲキな父子に新しく始まった、キビシクも温かい友情物語。(『続・岳物語』紹介文より)

とのようにざっくり言えば、元気いっぱいの岳少年を見守る「おとう」の私小説なのである。

この本はあまり小説などに触れてこなかった当時の父親の心にナニカ大きな波紋を巻き起こしたようで、生まれたばかりの私は『岳』と名付けられる予定らしかった。

しかし『岳』という字は当然『山岳』という単語から取った『岳』なのであって、椎名家の長男『岳』は両親ともに山登りが好きだったことから付けられた名前だ。それに対し我が家は、冷静に考えてみれば私の父親も母親も山登りになどとんと興味を持ってこなかったのである。なので私が『岳』と名を授かった暁には、山にさして思い入れのない両親と、その両親に育てられたこれまた山に思い入れのない、しかし『山岳の岳』の字を背負ったなんとも宙ぶらりんな子どもが世の中に誕生することになるのであって、それにはたと気づいた当時の父親は著者の椎名誠から取って『誠』を私の名とする次善策を思いついたのだった。

「長男の名前は『誠』にします」

私の父親は、そう私の祖父に伝えた。しかし祖父は首を縦に振らなかった。なんでも『誠』は祖父の生まれた山梨県福原の町で早死にした男が背負っていた名前だったから、というのがその理由らしかった。それから祖父は「俺が考える」と言って筆と大量の藁半紙を抱えて自室に篭り、あーだこーだと塾考を重ねていたらしい。赤ん坊は生まれてから14日以内に名前と共に出生届を出さなければいけないのだが、名前が決まったのは13日目になってからだったという。祖父はのそりと居室から顔を出し、言い放った。

「決まったぞ。"優樹"にする」

この時、名無しのまま13日間手足をバタつかせて部屋の隅のベビーベッドに寝転んでいた赤ん坊、つまり私は、優樹という名を背負って生きていくことが決まったのだった。


そんなわけで名を授かる以前から『岳物語』と関係があった私だが、そんな経緯を知ってか知らずか、私はそれを物心つく前から手に取っていたらしかった。親の読み聞かせではなく自分で読書を始めたのが小学校中学年くらいのことだったので、はっきりと内容を覚えていたわけではないのだが、しかしそこに綴られた世界観は私の価値観に大きな影響を与えていたようだった。

実際当時の私は、自然に身を投じて全身全霊で遊び回ったり、父親と汗だくになりながらプロセスごっこをするのが何より楽しかった。祖父の実家である山梨は大層な片田舎なのだが、そんな田舎に帰るのが嬉しくて仕方なく、ひとたび足を運べば朝から晩まで山を駆け巡っていた。行動量が多いせいか小学校でもとかく先生に目をつけられがちで、叱られる機会はバツグンに多かった。そんな港区謹製鉄緑会系熱血教育ママのもとに生まれていたら毎日「ザマス」口調で膝詰め説教を食らっていそうなやんちゃ坊主だった私はまた、ユージョーなんて青臭い言葉にも、その意味も正しく知らないうちから惹かれていた。そしてこれらの原体験は今の自分からも消えていないらしく、私はいまだにアドベンチャー的アウトドアイベントを企画すると心が躍るし、青臭い青春物語みたいなものに魅力を感じてしまったりするのだった。

このように『岳物語』のエッセンスは私に色濃く影響を与えているのだが、思うに『岳物語』の魅力は大きく二つある。一つはこれまで述べてきたような、ネイチャー的アドベンチャー的世界に身を投じる登場人物たちのユージョーが放つ、ショーネン心満点な世界観である。岳少年とその友人たちの自由な育ち方はもちろん、著者の椎名誠なんて40歳になってもやれアラスカだ、やれシベリアだと世界各地を飛び回り、カヌーやアクアラングを駆使して冒険に勤しんでいるような、まさにショーネン心をいつまでも飼い続けているような人物だ。彼のように「まだ見ぬワクワク」を第一の価値として生きている「いい大人」への憧れは、当時も今も変わらず私の中に残り続けているし、読者の多くもそういう部分に惹かれたのではないかと思う。

そしてもう一つの魅力は、『おとう』が岳少年の成長を目の当たりにして感じる、複雑な感慨の味わい深さである。つまり日々成長する息子への驚きと喜びや、同時に彼が自立し彼自身の世界を確立するにつれて彼の中で父親としての自分の存在感が薄れてゆく悲しさとか寂しさとか、そういったいくつもの感情がごちゃまぜになった、えも云われぬ心情である。この『おとう』が感じる、かつて二人が過ごしたウツクシイ時代を儚みつつも、成長を受け止め、送り出さんとする感慨が、『岳物語』の第二にして最大の魅力だと思うわけである。


そして話はようやく、このnoteのタイトルにつながる。詰まるところ私が大学4年の3月31日、学生最後の一日に『岳物語』を読み返したかったのは、今この日に私が感じている感慨と、自分の原点であるこの小説で『おとう』が感じた感慨に、近しいものがあると思ったからなのである。私は20年以上も"子ども"として生きてきたが、あすからは社会人になる。いわばウツクシかった子ども時代に区切りをつけ、自立せんとする自分を受け入れる、その境目に立っている。そんな今の心境は、まるで岳少年を送り出す「おとう」と同じなのではないか。そんな気がして、今日という日にこそこの本を読み返すべきだと思ったのだ。


『続・岳物語』は、「おとう」が岳少年を中学の入学式に送り届けるシーンで締め括られる。

「よおし、いけ、岳!」

とわたしは頭の上を吹き渡っていく春の風の中でそのとき突然思った。少年岳と私のひとつのやさしい時代はこれで終ったのだ---とその時私は思った。


やさしかった私の「子ども」時代は、今日この日でひとまず終わる。そしてそんな日にこそ、自分の原点にしてこれからの道標ともなるこの本がふさわしいと思ったのである。




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