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文才があるってなんだ?
SNSが発展してから、いや。私は生まれた時からインターネットがそばにある生粋のZ世代なので、私の生活にSNSが馴染んでから?、少なくない回数言われてきたのが「文才あるよね」だ。
「ないだろ」
私の脳内自動応答は決まってこれ。長期休暇中のクライアントから届くあのメールくらいの速度で頭に浮かび上がる。けれど、人から自分がどう見られているのか知るきっかけは逃したくないタイプなので、なぜかと聞くとだいたい「ワードセンスがよい」と言われる。
「そうか?」
今度はそんな風に思う。これは決してこの後、私がどれだけ褒められてきたか実際の投稿を引用していけしゃあしゃあと語るためのイントロではないのでどうか安心してほしい。
意識はしていないのにどこか身近な「文才」というワードについて、ちょっと考えてみたいと思ったのだ。
そもそも文才とは何なのか。
広辞苑を引くと「文章を巧みに作る才能。文筆の才能。」と出る。いや、カッチョイ。想像の何倍もたいそうじゃん。たいそうすぎる。ないだろ、文才。
振返ってみると幼稚園の頃から文章は身近だった。本の虫(姉)と市立図書館に行って10冊借りたら、それを1週間以内に読み切るというのが物心つく前から習慣づいていた。その当時はそれよりも、その先にあるおやつが欲しくて続けていた。(母はニンジンをぶら下げるのがうまいので、こういった形で私に読書させていたんだと思う。)
併せて、同じく物心がつく前から公文式に通っていた。最初は隣に座る先生に「これはなあに?」と聞かれて、『りんご‼』と答えるだけで超褒められていたのに、気づけば一人で席に着き論語を読んでいた。良く分からないまま特に苦でもなく毎週コツコツ通っていたら、小学校高学年のころ国語の高校課程終了認定テストを受けていた。
けれど、中学以降は本や文章に自分から近寄ることはほぼなかった。(携帯小説は別物ね)かばんに入っている本は全部参考書だし、小説を読むひまがあれば嵐のライブDVDを見たかった。
会社員になってから、本を読みたいと思うようになった。教育が義務じゃなくなってから7年も学校に通わせてもらったのに、あまりにも頭の中身が空っぽな自分が情けなくて、ただ知識がほしくていろいろ買ってみた。けど結局読み切ったのはそのうち10%くらいだ。
今の私にとって、文章は読むものから書くものにもなった。エッセイや記事、本を読むことで知識が増えたり人の考えに触れることで、自分の理解が深まる感覚。そして、書くことですっきりして、整理ができる感覚。
ただ、自分が書くことにも挑戦するようになってから感じるのは「自分が伝えたいことを正しく適切に文章に落とし込む」ことがどれだけ難しいか、ということだ。読み手によって解釈の違いは一定生じるにしろ基本的には書き手の意図通りに伝わる、ということがいかに難しくて大事かということをNOTEを開くたびに感じる。
その難易度を自分の中で下げるためには、語彙力や構成力、言い回し力、くどくないか気付く力とか、そういうのが必要だと思う。そういったものを補うのに、やはり書籍が有効だ。
「最近のちびっこは間違った日本語をユーチューバーから覚える」という話を聞いたときに他人事ではないなと思った。日本語のプロからのチェックを通した書籍やそのほか記事を参照するのって、結構大事だし、大人になると間違っていても教えてくれる人がいなくなる。
小難しい言葉を何個も並べる必要は決してなくて、論理的で正しく日本語を使えて、意図が汲み取りやすくて誤解が生まれない文章を書けるようになったら結構大したもんだと思う。
それこそが、今私が定義する文才なのかもな。
こういったかしこまった文章に限らず、「人に伝わる可能性がある」ことを意識して日ごろの会話から気を付けていかないといけませんね。
さ~あ、バイト行くか~~~~