羊神社 (群馬県安中市)
なかなか珍しい名称に触発され、磯部温泉の南に広がる台地にいってみた。田園風景が広がるなかにこんもりと杉林があり、羊神社はその中にあるという。
狛犬ならぬ狛羊!?
やや開けた場所に出ると、小さな社を発見。
幟旗あり、周囲の敷地もきれいに掃き清められ、ここもまた地域のひとたちの奉仕ぶりが明らかだ。愛されている社なのだろう。
境内外の境がなく、あるのはやや頭を屈めなければくぐれないような小ぶりの鳥居。目の前の社脇には、なんとも愛くるしい狛犬ならぬ狛羊がちょこんと鎮座ましましている。
雛には稀な、というと失礼か。とにかく開放感あり、清潔感ありの、明るい神社なのだ。
御祭神からみえてくるもの
由緒書きを見てみると、ここに祀られているのは「天児屋根命」と「多胡羊太夫(藤原宗勝)」とある。
アメノコヤネノミコトといえば、天の岩戸隠れの際に、アマテラスを外に誘い出すための占いをした神様として知られている。のちに、天皇家の祭祀を司る中臣氏(のちの藤原氏)の祖神とされた。
一方の多胡羊太夫は、武蔵国秩父郡で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り「藤原宗勝」を名乗った、とされる伝説上の人物だ。
どうもこの伝説からは、ヤマト朝廷による全国制覇の道筋が見えてくるように思えてならない。
ヤマト朝廷による征服の軌跡?
和銅が発見されたのは慶雲年間(704年〜708年)。大化の改新からまだ半世紀で、律令制が徐々に浸透しつつあるとはいえ、統一国家成立というにはほど遠く、王権側のいう「まつろわぬ者ども」が各地で勢力を張っていたころだ。
この羊太夫は、そうした豪族だったのではないか。その一豪族が国内で銅を発見したとなれば、王権側としては、力を持った豪族が反乱を試みるのを防ぐためにも、即座に取り込む必要がある。それが郡司職と藤原姓の付与という手段だったのではないか。
伝説によれば、羊太夫はその後、渡来人の焼き物や養蚕などの新しい技術を導入し、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、隣接する武蔵国高麗郡を根拠地とする高麗若光の讒言によって、ついに朝廷によって討伐されたという。
そんな裏の歴史があったとしても、狛羊たちにはどこ吹く風--。
その穏やかで明るい佇まいが、この神社の最大の魅力だろう。
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