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【自己紹介】「出身はどこ?」に答えられない。アイデンティティ クライシスってご存じですか?
はじめまして!わたしの自己紹介noteを開いてくださり、ありがとうございます。
現在は英語が公用語のオフィスで働きながら、オンライン英会話レッスンをしている小原真紀(おばら まき)です。
41歳で教員免許を取得、42歳で教員に転職。天職だと信じて定年まで勤めるつもりまんまんだったのに。6年目にうつ病とパニック症を併発し、退職することになりました。
とても傷つき、自己嫌悪に陥っていましたが、不調の波に飲み込まれながら、本やSNSでうつやパニック症との共生の仕方を学び、3年後に労働復帰を実現できました。
その経験から学んだ”心と体のごきげんを育てるコツとセルフケア”についてXで発信しています。
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そんなわたしの自己紹介note。こんな方の手元にお届けできたらうれしいです。
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うつ病再発の恐怖とパニック症。そして、決してなくなることのない寂しさを抱えながら、いま「なりたいじぶんとちょっと先で待ち合わせ中」です。
不調もさみしさもセルフケアで小さくできます。ひとにやさしく、じぶんにもっとやさしくなること。じぶんを好きって言えなくても、じぶんを大切にすることはできるんです。
さみしさは心のデフォルト。みんなおんなじです。でも深さや大きさはちがう。そして、なにより理由がちがいます。
それを探して、見つけて、受け止める、その欠片をみつけるだけでもいい。なにが寂しくさせているのか、じぶんを好きっていえない理由はどこにあるのか。
だれもが忘れらない心の傷を抱えています。内なるこどもが心の中で泣いているのです。ちゃんとよしよししてあげる。そこから「じぶんを愛する」ことがはじまります。
じぶんを愛するっていうのは、ちょっと恥ずかしいけれど。じぶんを労る時間と術を持つことだと考えています。
そしていつか「自分大好き」って言えたらいいな。と憧れています。
そんなわたしの「寂しさ」は”出身地を答えられない”ところから始まっているようだと気づいたのです。傷つく、という感情を覚えた6歳の記憶までさかのぼります。
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最後まで読んでいただけたら、きっと心に小さな虹が浮かぶはずです。
「出身地はどこ?」
生まれた土地?育った場所?いちばん長く暮らした場所?
つい最近まで苦手な質問のひとつでした。東京生まれで青森育ち、初めての就職は沖縄。いちばんながく暮らしていた土地は熊本。そして今また、沖縄に戻ってきています。
暮らした年数は東京6年、青森12年、沖縄はトータルで8年、熊本は20年余り。途中、山形に2年、ニュージーランドに半年。引っ越しは15回以上。
どうにも「ここが出身地」と帰属意識を持てる場所がありません。ひとからはよく「自由に生きてるね」とうらやましがれるようなこともありましたが、根無し草のようでコンプレックスに感じていたのです。
父は青森出身。予備校に通うために上京。母は日本復帰前の沖縄からパスポートを持って就職のために上京。そこで二人が出会い、わたしが誕生しました。
小学校1年生の3学期に突然、父の都合で青森に行くことになりました。両親はごまかしていましたが、わたしは布団の中で両親のもめごとを聴いていて別居になるのだと知っていました。6歳ながら知らぬふりを通したじぶんは偉いな、と今でも思っています。
こどもと侮るなかれ、です。この記憶があるので、こどもに対して敬意をもって平らな関係性を持つことを大切にできています。
この想いはのちにこども英会話インストラクター、高校教員をしていたときに、とてもわたしを助けてくれました。3歳でも18歳でも彼らには彼らの想いや考え、理由があるのです。
話しはそれましたが、父は小学生のころからいつも私に言っていました。
「俺はお前の人生の責任はとれない。自分で決めろ。それを俺はできる限り応援する。」と。聞こえはかっこいいですし、ひとりの人として対等に扱ってくれているようでうれしくもありましたが、ときに辛い決断も迫られました。
そのひとつがこの青森行きのときです。父は祖父母と暮らすために青森へ行く。母は仕事のために東京に残る。「お前はどうする?」
えー???別居するんでしょ?離婚前提なんでしょ?6歳のわたしが決めるのー?
それが内心の叫びです。母が働きながらわたしを育てるのは難しいと言っていたことも夜中の会話から知っていました。フリーズするわたしに父は続けてこういいました。
「青森はまだ冬休みが2週間続くぞ」
その言葉につられたふりをして、青森行を決めました。冬休み中のできごとで当時の東京での小学校の同級生や担任の先生にお別れする機会もないまま転校しました。
青森デビュー
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やっぱり嫌だな、不安だなという気持ちが大きくて、転校初日に泣きながら、身支度をして遅刻。さらに教室に入りづらくなり、玄関までもどって泣きつづけ、父は仕事に。担任になだめられ、ようやく教室に。
東京からの転校生。昼休みには興味津々の同級生数名に囲まれて、すぐに質問攻め。しかし!!クラスメイトが青森訛り全開でほとんど何と言っているかわからない 。
だまりこくっているうちに、「気取ってんじゃねーぞ」「無視すんな」などと言われ、そこだけはハッキリ聞き取れたので、つかみ合いのケンカにまで発展。
とんでもない転校初日になりました。でも3日も経つと、緊張も和らいできて、気をつかって方言控えめで話してくれるやさしい女子も現れました。
覚えたてのあいづち「んだな」を使ってみると、「あ、まきちゃん、青森弁話せるようになってる!すごーい!と褒めてくれたりして、うれしくなりました。
そこからぐんぐん青森のイントネーションや方言を学ぶようにになります。
このときに、ことばがひととの間をつないでくれる大切なものであると体感しました。
土地のことばを話すことでぐっと距離感が縮まること、また文化を知ることに繋がる、というこの経験が言語への興味関心を高め、英語への学びへつながる原点となったのです。
それから、ミニバスケットボール部とソフトボール部を兼部して、とても楽しい時間がスタートしました。
ただ、今でもあることですが、場の空気を読まずに、自分の意見をはっきり言ってしまうADHDの気質から度々クラスメイトと衝突しては、帰りの会などで、先生に注意されることがありました。
「余計なひとこと」と「気の利いたひとこと」のちがいが今でもわかっていことがあります。ことばが人との距離を近づけたり、遠ざけたりする扱いの難しいものだという悩みは未だに続いています。
言いたいことをいうべきか、相手の顔色をみて言わないでおくべきか。
両親別居議論を聴いてないふりをして過ごしたり、青森行きの判断を父と母の顔色を見て、自分で決めたふりをしたり。だれかの機嫌を損ねるのはヤダな、という気持ちが大きくなっていきます。
でも、がまんを重ねるとパーンとはじけて、いいたいことをぶちまけたり、無言で関わりを断ち切ったり。今でもしばしば反省しています。
ことば、への関心はさらに高まります。 ソフトボール部では、近くにあったアメリカンスクールとの交流試合が年に3回ほど行われました。そこで英語というあたらしい言葉に触れることになります。
試合が終わると アメリカの英語表記のコーラとかセブンアップとかチェリーコークなどが配られました。いかにもアメリカ!という缶ジュースが大きなバケツに氷と一緒に冷やされててアメリカ人のコーチから手渡されます。
私は、コーラを渡されて「あ!セブンアップが飲みたいのに」と思うんですけど、毎回言えない。 セブンアップが欲しいですって言えるようになりたいな 、と思うようになるのです。
それから、交流試合の中で「今、何を話してるのかな? 何て言ってるのかな?」とか”グッジョブ”って言われて、意味はわかんないけど、 今なんか褒められたんだなとか、些細なことがが分かるになるのがとても楽しかったことを記憶しています。
中学・高校では、英語の授業が文法ベースだったことに少しがっかりしましたが、会話の基礎力には必要だと考え、一生けん命勉強しました。数学と理科は35点、でも英語は90点、そんな偏った成績でした。
また会話力を身に付けるために、高校1、2年生のときに英会話のグループレッスンに通いました。 経済的に裕福ではなかったんですけど、父に懇願して、OKをもらいました。
雨の日も、雪の日も休まずに通いました。そして、より英語を話せるようになりたいということで、父にさらにお願いして、高校3年生の時には個人レッスンにしてもらいました。
2年間のがんばりを見てくれていたのだと思います。すごく経済的に家計に負担をかけたと思うんですけど、これは本当に感謝しています。
そのときに、 必ず高校在学中に英研2級に合格するっていう約束をしました。それを達成したときには本当に喜んでくれて、ハグしてくれました。 鮮明に覚えている忘れられない父との思い出です。
さらに英語力を高めるべく、英語の短大(これは本当に大失敗ですが、また別のお話し・・ということで)に進学し、卒業後はニュージーランドに旅立ちます。
日本人ができるだけ少ないところで、ワーキングホリディビザが取れるところ、ということからニュージーランドを選びました。
結局は学生ビザで行くのですが、大使館とのやり取りから語学学校とのやりとりまですべて郵便で、なんの業者も通さずに個人でやり遂げました。これは英語力を鍛えるため、と余計な出費を抑えるためです。
ものごとをやる!と決めたらやり遂げる継続力、とことんやり尽くす完璧主義(最近まで気づいてませんでしたが・・・)はすでにすっかり確立していたようです。
ニュージーランドではただ語学学校に行くのはつまらないな、と考え、先住民のマオリ族のことばと文化(歌やダンス、歴史など)を学ぶクラスに入り、英語で授業を受けました。
また、スキューバダイビングの免許取得のための講義も英語で受けて、試験に合格。興味関心のあることを学びたい言語で学ぶのが習得の最速法であると実感しました。料理、ヨガ、ダンス。好きを英語で学ぶこと、ほんとにおすすめです。
沖縄デビュー
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またまた話はそれましたが、半年後にいよいよ就職を考えたとき、英語を使った職業が多そう、そして、ダイビングが楽しめそう、ということで沖縄での就職を決断します。
父と母はわたしが12歳のときに離婚していたので、母に会いに沖縄にはよく行っていました。沖縄の方言も好きで、幼いころからおばあやいとこの真似をしていました。
やはり、わたしが沖縄のイントネーションで話すことで周囲はよろこび、いろんな新しい単語を教えてくれたりしました。「まーきーは、やっぱりうちなんちゅやっさー」(まきはやっぱり沖縄の子だね)と言われ、わたしもうれしかったのです。
沖縄に遊びに来たときは沖縄訛りで話してみる、青森に帰ったらまた青森弁で話す、そんなこども時代です。まちがって沖縄弁で話そうものなら、青森の祖母はおもいっきり怪訝な顔をしたものです。
ひとの顔色をうかがって、話す言葉を変える、妙なことをしていたな、と思いますが、幼少期から自分の中に「東京」「沖縄」「青森」というふるさとと呼べない大切な場所がありました。
そんな想いもあって、ニュージーランドから戻った21歳のとき、沖縄のことをもっと知りたい、と沖縄での社会人デビューを選びます。はじめての就職はこども英会話スクールのインストラクターです。
土地のことばを話すほうが同僚とも保護者のみなさんとも、こどもたちともコミュニケーションが深まるので、沖縄のイントネーションやことばで話しをするようにしていました。
それに加えて、出身が「青森」となると驚かれて、質問攻めにあうので、沖縄のひとだと思われようとしていました。
話したくないこともたくさんありますし、長くなるからです。出身地の話題は通常、特産品や美味しい食べもの、観光地などで盛り上がります。
ただ、沖縄にいて、出身地が「青森です」になるとそうした話題よりもなぜ、どうして、沖縄に辿り着いたのか、という自分史に焦点が当てられてしまうのです。
それで、深堀されないように編み出した答えが「青森と沖縄のハーフです」なのです。
これだと、沖縄の話題の比重が増え、複雑なこども時代の話しをしなくて済みます。また、あちこち移り住み、根無し草のようなコンプレックスとなっている話題を披露しなくて済みます。
しかし、4年が経過したころ、親戚から「まーきー、もうこっちで結婚してずっとお母さんと一緒にいたらいいさー。」と言われます。
聞き流すこともできるようなサラっとしたものでしたが、わたしの心にざっくり引っ掛かりました。
むむっ??そうかぁ、それはできないな。男手ひとつで12歳のわたしと3歳の弟を育ててくれた父が青森にいるのに。こどもを置いて沖縄で自由に暮らしてきた母と暮らすつもりでここにいるわけではない。
あれ?母にも誤解を与えるかな?いかんいかん、沖縄から脱出しなければ。父にも母にも誤解されてします。はい、出ました、他人軸での判断です。
当時は25歳くらい。なにもわかっていませんでした。
母が青森を出たのは30歳。パスポートを持って沖縄から東京に出てきて、すぐにわたしが生まれ、その後、ものの6年で異国ともいえる雪国へ。凍える寒さと著しく短い日照時間。なじみのない食事。
気候や食事といった環境が体調や心に大きく影響することは、いまは身に染みてわかります。
さらに母には親戚も幼馴染も同級生も居ない場所。
12歳のわたしと3歳のかわいい盛りの弟を置いて沖縄へ帰る。心が張り裂ける想いで青森をあとにしたはずです。
弟の結婚式のときにビデオレターを撮影するために沖縄に戻ったときに、母は「おめでとう」のあと、あっという間に、喜びがあふれて号泣してひとことも話せなくなりました。
その姿を見て、ずっと心に隠し持っていた母へのわだかまりが流れ去りました。それはわたし39歳のとき。ちょうどわたしもじぶんの離婚について思い悩んでいた時期です(あ、これもまた長くなるので、別のお話しということで・・・)
と、話しを戻しますが、すっかり慣れ親しんで、じぶんの中の沖縄DNAをしっかり育んだ約4年間の沖縄生活第一章が完結します。
熊本デビュー
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九州への転勤願いを出し、熊本へと移住します。それから北上していく予定でしたが、20年以上住むことになるとは全く思っていませんでした。
沖縄ではこども英会話インストラクターとして、生徒獲得数で表彰を受けること3回。ハワイ、イギリス、アイルランドでの研修旅行に参加する機会に恵まれました。
辞める生徒の少なさでも千人以上いるインストラクターの全国ベスト10に入り、TOPインストラクターとなっていたので、大歓迎をされての熊本勤務がスタートしました。
ここでまた新しいことばとの遭遇。熊本弁です。そして、出身地を聞かれて目立ってしまう展開。やはり、熊本のイントネーションと言葉を覚え、熊本のひとっぽい振る舞いをすることになります。
ムリに、ではなく、そうすることがコミュケーションを円滑にするステキな方法のひとつだと考えています。笑顔のようなものです。
外国人が一生懸命に日本語を話そうとしているのを不愉快に思うことがないのと同じです。馴染もうとがんばってるな、と微笑ましくうつると思いますし、新しいことばを教えてあげようという交流も生まれます。
こうした気持ちは英語を話せるようになりたい!という生徒の想いに通ずるところがあるので、同じ目線でレッスンを提供できたことが、たのしい!わかりやすい!と言ってもらえる理由だと考えています。
英会話レッスンは本当にたのしさ、やりがい、この上なし!です。
しかし、このあとある葛藤を抱えるようになり、転職します。そして、結婚、通信大学入学、離婚、教員免許取得、教員デビュー、うつ病、退職。、転地療養の地として沖縄に戻ってきます。
これもまたまた、長くなりますので別のお話し・・ということで。
ここまでの生い立ちで、わたしの中にコンプレックスが生まれます。
アイデンティティ クライシス
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“アイデンティティ クライシス”という言葉があるんですけど、 自分のアイデンティティ、何者なのかというのが揺らぐ危機を感じるいう意味です。
例えばハーフの方(ハーフっていう呼び方も半分のひとってみたいで英語としては好まれません。例えば、フランスとメキシコの2つのルーツを持っているという言い方をします)やバイリンガルの方に多いと言われています。
日米ハーフの場合。日本語は話せるけど、ことわざを知らない、漢字を読めないときに笑われる。外国人扱いされる。
でもアメリカに行っても知らない映画や歌があって、ことばも中途半端で何人なの?って感じちゃう、というものです。
私って一体何者なんだろう、どこ出身なんだろう、みたいなのを考えていて、 ちょっとコンプレックスだった時期もあります。
地元の幼馴染が、大学卒業後に地元で就職して、そこで家族を持って、家を建てて、どっしり根を張って生活している。
わたしは幼少期から引っ越しが多く、生まれ育った家というものがありません。実家と呼べるほど長く住んだ家もない。
18歳から一人暮らしを始めたのですが、そのあとに父と弟が引っ越しをしたため、住んだこともない家に帰る不思議な帰省をしていました。
そんなわけで、地元にずっと住んでいて、親戚も幼い頃からの友人もいて、仕事仲間もいるっていう感じ。 安定した暮らしがある。ここがじぶんのふるさと、コミュニティって言えるものがある幼馴染をうらやましいな、と感じていました。
のちにわかるのですが、この幼馴染の彼女は自分のことを外の世界を知らない視野の狭いひとになっちゃってるな、というコンプレックスがあったそうです。やはりないものねだりするのが人というものですね。
ここが地元っていう場所がある。コミュニティの仲間と手をつなぎ合って暮らしているという状況がすてきだなと感じます。 伝統とか文化っていうものを深めて暮らしているっていう人に憧れを持っているんです。
私はどっちかというと根なし草、プランクトンのように流れ流れて暮らしている。 根っこっていうものを張ったことがないんですよね。
なんだか所在のないというか、頼りない存在だなって思っているのです。
じぶん軸の芽生え
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だから自分の軸っていうものが定まらない。誰かが喜んでくれるかなとか、誰かの機嫌を損ねないかなとか。そういう顔色をうかがうっていうことに繋がっているんじゃないかなと思っているんですよね。
それがコンプレックスだったんです。
でも、最近は根っこを張るっていうことが土地とか、 場所じゃなくても、自分がやりたいと思っていること、それを貫くっていうことでもいいのかな、と思えています。
そのやりたいことに根っこを張って、広げていく。手を伸ばして仲間や応援していく人、応援される人を増やしていく。それが 私のアイデンティティーになるっていう考えに行き着きました。
これは、多様性とか、コロナを挟んで、テレワークとかノマドワーカーという言葉が 一般化したところにすごくリンクしていると思います。
仕事についても、入社から定年まで同じ会社で働くということが必ずしもいいとはされない。 それが向いている人と向いていない人がいるっていうことがあるように、居場所を移動しながら培われるものがある。
いろんな場所で吸収したことば、文化、経験があるからこそ、育つアイデンティティーっていうのがある。
多様性を受け入れる寛容さを育ててくれたと思っています。
次のステージに移動しようとしている人をサポートできるような仕事をしていきたい。その軸がしっかり定まったので、アイデンティティークライシスからは脱出しました。
「出身は?」と聞かれたら、「青森と沖縄のハーフです。」と笑顔で応えられるようになりました。
どうゆこと?と聞かれても、「長くなりますけど、3分バージョンと3時間バージョンどっちで話しましょうか?」と冗談も言えるようになっています。
あちこちに住んで、根差した土地はありませんが、心の根っこを張るときがきました。いろんな土地で得た出会いと経験と学び。それを活かして、今は副業としてオンライン英会話レッスンをしています。
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英語の学びを通して、人生の次のステップへ進もうとしているひと、新しいチャレンジを始めようとする人をサポートしていく。
さぼてん英会話を空港のように、目的地へ向かう人たちが集まる場所にしたいと考えています。
その空港を案内するガイドでありたい、英語学習の先輩として”英語ガイド”として、英語を学び、次のステップへ進もうとするひとたちを応援する。
英語を学びの最初の一歩を踏み出しやすいように、約1年前にXで実践英会話の発信をはじめました。
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そして、まだ新しいチャレンジを考えることができないような心身の不調を抱えているひとにわたしのうつ病の経験をシェアして心と体を調えてもらいたい。
ここにしっかり軸を置いて、生きていきます。
なりたいじぶんと待ち合わせ
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出身地っていうことがアイデンティティの起点だとすると、やりたいこととかなりたい自分っていうのがアイデンティティの到達点(なるものがあるとすれば)へのひとつの道しるべになると思っています。
アイデンティティ=じぶんとは何者か、という自己認識の到達点って、ひとそれぞれでいいですよね。もちろん、なくてもいい、考えなくてもいいことです。
わたしは「じぶんらしく生きられること」だと考えています。
青森と沖縄というふたつの土地の文化をたのしくミックスさせながら、じぶんらしさを活かして「だれかがなりたいじぶんへ近づくためのサポートをしていく」を使命としていきます。
それを見つけるためには、心と体を整えるっていうこと、そして自分の心の声に耳をすませるってことが大事です。
その声に素直に耳を傾けることができるように、セルフケアということを大事にして、心穏やかに過ごす時間っていうことの大切さをもっともっと多くの人に知ってほしいと思います。
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うつ病・パニック症の方だけではなく、心と体がちょっと疲れているひとにもセルフケアを日々に取り入れてほしい。
その想いを28,000文字に込めてnoteを書きました。ぜひ覗いてみてほしいです。
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心身の調えと英語の学び。遠いようで、実は隣りあわせのこのふたつ。英語じゃなくてもいいんです。新しいことにチャレンジしたいな、って思えるような元気とごきげんを育てるのが先。
よし、なにか始めようっていうときに、英語がいいなという方がいたら、そちらもサポートいたします!といつでもスタンバイしています。
やってみよう!と思える心。それに応えられる体。じぶんを信じて挑戦できる自信。失敗して落ち込んでも回復できる強さ。
ごきげんと学びと自己実現。この3つのステキな融合を提案できるガイドになる。なりたいじぶんとちょっと先で待ち合わせ中です。
「出身はどこ?」
なりたいじぶんが見えた今、行きたい先を知った今。すんなり答えられる質問になりました。振り返るとりんごとハイビスカスがくっきり見えます。
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「わたしって何者なんだろう」って不安になったときにじぶんのいちばんの話し相手でいたいですよね。これからもじぶんんに問いかけてあげる時間を大切にしていきたいです。
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じぶんの元気とごきげんを育てて、必要なひとにシェアできるように。なりたいじぶんと待ち合わせしよう!って思えるひとが増えるように。これからも丁寧な発信を続けます。