息子が記憶を失った

私には大学生の息子がいる。息子が高校３年生になってすぐのころ、コロナ禍となり、10日くらい休校になった。

外出もできないので、息子は自分の部屋で昼寝をしていた。しばらくして２階で足音がした。起きたのかな？と思っていたら、次の瞬間「ゴンッ　ドッターン」とものすごい音がした。

ビックリして２階へ上がると、息子があおむけに倒れている。声をかけるとすぐに目を開けたが、一瞬気を失っていたようだ。

いったい何があったのか分からないが、おそらく寝ぼけてどこかにぶつかり、倒れて頭を打ったのだろう。

「大丈夫？」
わたしが心配して言うと、息子が頭をさすりながら「痛い」と言っている。

しばらく様子を見ていると、息子が変なことを言い出した。
「今、春休みよね？」

「えっ！春休みじゃないよ。コロナで休校になったでしょ」
わたしは息子がまだ寝ぼけているんだと思った。

「えっ！なにそれ？」
息子が困惑している。いや、私も困惑してきた。えっ！今春休みじゃないよね？いやいや、確実に春休みは終わってる。

「今、俺２年生よね？」
「はっ？３年生よ。この前クラス替えで、Aくんと同じクラスになったって言ってたよ」

「え？・・・記憶にない！」
「・・・」

私は言葉を失った。どういうこと？覚えてないって、もしかしてさっき頭を打って、記憶が飛んだ？

私はいつからいつまでの記憶が消えたのかを確認することにした。普通に会話をしているところを見ると、どうやら私が母親であることは覚えているようだ。

「春休みに長崎に行ったのは覚えてる？」
「うん、なんとなく」
息子が自信なさそうに答えた。

「じゃあ、先週、部活のみんなで山に登ったのは覚えてる？」
「いや、覚えてない」
１つ１つ確認していくと、どうやら過去１か月くらいの記憶がないらしい。

怖くなった私は、夕方で病院が閉まっていたので、慌てて夜間診療をしている病院へ息子を連れて行った。

当番医が内科の若い先生だった。丁寧に話を聞いて診察してくれた。
「脳外科でちゃんと見てもらってください」と言われた。

診察が終わって会計の順番待ちをしていると、息子が言った。
「いま何時？」
「11時」
私は時計を見ながら答えた。
「俺、病院までどうやって来たか覚えてない」
息子が不思議そうに言った。
「さっき車で一緒に来たの、覚えてない？」
「うん」

まだ頭がぼーっとしているのかな？大丈夫かな？あした脳外科につれていこう。そう考えていると、息子が言った。

「いま何時？」
「ん？さっき言ったよね、11時」
そんなに時間が気になるのか？と不思議に思っていると、息子が言った。
「俺、病院までどうやって来たか、覚えてない」
「？？？」
もしや、記憶喪失現在進行形？

「えっ！さっき先生に診てもらったのは覚えてる？」
「うん」
どういうことだ。少し前の記憶が消えている。ご飯を食べたことを忘れて、ご飯を食べさせろと怒っていたお年寄りをテレビで見たことがある。これは認知症と同じ症状じゃないか！

頭を打って記憶喪失になるドラマはよく見る。だいたいは自分が誰かもわからない状態で、両親や友達のことも忘れてしまう。でも息子は過去１か月の記憶がないだけで、それほどダメージをくらっていないと思っていた。

でも数分前のことを忘れていっている。短期記憶がゼロだ。今年は受験生なのに、新しい記憶が全部消えていくとしたら、受験どころではない。それどころか、これからどうやって生活していけばいいのだろう？

数分前のことを忘れるようでは、仕事なんてできるわけがない。

家に帰ってからも、３分おきに、スマホをアルコールで消毒していた。
「さっき消毒したよね？」
「そうだっけ？」
エンドレスでスマホを消毒する息子を見てゾッとした。どうしよう。

眠れない夜を過ごした。朝、昨日のことを１つ１つ確認してみると、ボンヤリとしか覚えていなかった。病院に行って先生に診てもらったことはかろうじて覚えていた。

翌日には、記憶がどんどん消えていく症状はおさまった。なんとか受験生は続けられそうだな、と胸を撫で下ろした。

それにしても、人間の脳とは不思議なものだ。記憶って、どこにどんなふうに記録されているのだろう？