明日を生きる僕へ。カナリアの声を聴け。2020年9月30日【特にオチのない日記】
頭の余裕を守れなかったころのこと
仕事で夜8時まで拘束されてしまった。頭が疲れてその日中に書こうと思っていたことも仕事の休憩時間にメモを取れず、時間が過ぎた後に胸に残るのはのっぺりした疲労感と頭の奥にうずく痛みだけ。
そうだ。この状態になるのが嫌で、仕事も人付き合いも自分のいやな部分も遠目から見たいと思って、画面から離れて生きていきたいと思うようになったんだ。画面には自分が生きる上でかかわっていくすべてが映っている。自分という個が観測する世界。自分なりの感覚でこの世を描き出した、本来の世界がコンパクトになった世界である。これに向き合い続けると自分の精神が参ってしまうことを、小さい頃の僕は認めたくなかった。でも、認めるところから生きていく必要があると知った。死んでしまうから。
趣味も、人付き合いも、仕事も、義務感も、入り浸りすぎれば精神的にバランスがおかしくなる。バランスを崩していること、一つのことに依存する(考えなくていいという)心地よさを手放すのが怖くなって、自分の明るい気持ちが泥沼に沈んでいく感覚。
浸るほどに取り出すことが難しくなり、誠意と依存の境目がぼやけていって、最後に心が死ぬ。体を動かす力が抜け出ていって、最後は布団から起き上がれなくなる。没入しすぎると自分の気持ちと余裕がすり減って、精神の不全が慢性的に化した末に壊れてしまう。
思っていたよりも自分の心なんてものは脆くて、すぐ乾くし、ささくれていく。挙げ句の果ては自分で生み出したささくれが自責という形で自分に突き刺さってやり場のない怒りと不満を手近なところに吐き出して、周りの幸せ豊かさを喰らい続ける。とどまるところを知らずに。
では、自己不全に陥るのを防ぐにはどうすればいいか?25年ンp人生で僕が見つけた暫定一位の答えは、「何者か」になるための挑戦をすることだった。何者かになりたいのではなく、何者か(自分なりにトライしていることを自認しやすいイメージ)になろうとしている自分自身を認識できる状況にすることで、自分にはまだ元気がある事実を確認している(ぶっちゃければ、ハマれることはなんだっていい。ただ、自力で認識できてランニングコストが低いものであればあるほど都合が良い)。
炭鉱に連れて行かれたカナリアのように、まだ鳴けるだけの元気があることを自分で確認できなくなることが怖いのだ。自信が持てず、ひたすらに情けないと自らをののしり、嘲り、傷つけていた子供の頃に戻るのが、ひたすらに怖い。だから、逃げるように新しいことに手を出しては、熟練に時間と労力がかかる事実から逃げたくなって、中途半端で手放す。それを忘れた頃にまた手にとって、拙い手で弄ぶことを繰り返す。幸いなのは、その循環も嫌気がさして、自分の得意なこと、好きなことに労力を集中させる知恵が回ってきたことだ。
【あとで書く】
仕事が苦しい問題
仕事のボリュームが増えてきた&社員に取ったアンケートにミスがあり、データの一部が使えなくなってしまった。案内文のわかりにくさで招いてしまった事態だとわかった。修正しつつ、冷静な頭で流してみたかったのだが、忙しさでチェックがおろそかになっていた。
月末にかけてなかなか作業が進まなかったツケが出てきているらしいが。我慢なんてしない。上司に泣きを入れるように相談しようと思う。
ごはん
朝ごはん。目玉焼き、ハム、人参サラダ、キャベツとれんこんのサラダ
昼ごはん。ナポリタンパスタ。
夕ご飯。マグロ丼、味噌汁、きゅうりのごま油あえ
まとめ
仕事で頭が疲れていても、日記をかけるようになった。クオリティもお構いなしで、まずは世に出してみる気持ちを持てていると、少しずつ自分のへっちゃらゾーンが広がっていく気持ちがある。ホッとできる空間が広がるのだ。物事を舐めているのではなく、軽んじているわけでもなく、自分のキャパを見極めてつまみ食いをすることでしか自分の平静さを保てないなら、もう世間の「こうあるべき」なんか目もくれず、個人最適な気持ちいいやり方を愚直に磨いていったほうがいいや。善悪の話ではなく、自分の命を守るときに、備え方は個人間で少しずつ違うっていう話だ。もう戻ってなるものか。
吐き出して、今日もカナリアは何かになろうとしている
今日はこの辺で、疲れてへんな文章になっているだろうけれど、ご了承いただけると嬉しいです。