傾聴と私の思考グセ
訪問看護の仕事をしていて、「今日は、うまく話をきけなかったな…」と感じることがあった。
悩みつつ、職場の先輩に話すと、「傾聴するしかないよね…」と返ってきた。
でもなぁー、
傾聴と一言にいっても、
聞き流している人もいれば、
親身になって聞き入ってる人もいるし、
自分の体験談をかぶせ気味に語る人もいる。
傾聴と一言でいうには、くくりが広すぎるなと感じている。
そんな折、私が自身の話を傾聴をしてもらう機会をいただいただいた。
そして話すなかで、傾聴の奥に、私の思考のクセも見つけてもらった。
1.わかってほしいから、わかろうとする
あやのさんが主催する「お話し聴き屋さん」に参加させていただきました。
私の話を、ただただ聴いてくれて、ものすごい包容力。
そして、落ち着いたトーンも、話の間もとても心地いい!
話すうちに、「そういえば過去にこんなことあったな…」とか、「この考えだから、こう思うのか!」という発見も。
小さい頃、母に学校であったことを話したら、途中でうとうとしだした。
私の話は聴いてもらえない、わかってもらえないと思い込んだんだなとか。
友達の輪に入れないときも、相手の気持ちをわからなかったり、わがままものだから、入れてもらえないと思い込んだんだなとか。
そして、自分をわかってもらうために、相手のことをわかろうとするようになったのかも。
でも、わかりたいが強くなりすぎると、わからないときに辛くなる。
わかってあげられない、と。
いや、うすうす感じてはいるだよなー。
相手の全てをわかるのは不可能だろうなって。
病気の相手を前に、病気になっていない私は、相手の痛みや辛さの全てはわからない。
ではなんで、そこまでわかろうとすることにこだわるんだろう。
きっと、相手をわかろうと尽くせば、私のことを受け入れてくれるという妄想があったからだと思う。
2.個性を活かすか、執着するか
一方で、相手をわかりたいという気持ちは、私の個性でもあると思う。
人の心や価値観に興味がある。
でも、それが、わからなくてはいけない!になってくると執着がはいり、目が血走って、最後には私はだめなんだ…という自己否定になっていく。
よくあるパターンのやつ。
違う、私はそもそも今の状態で十分なんだよなー。
傾聴のスキルが足りないから、役立ってないからダメっていうことではない。
こんなんではダメだと自分が自分を否定しているだけなんだよな。
本当は利用者さんにしてみれば、一緒にいるだけでいいのかもしれない。
わかりたいという気持ちはもったままでいい。
そして、全てをわかる必要はないかもしれない。
3.自分と相手は、切り離していい
最後に、あやのさんに傾聴について質問に答えていただいた。
私の傾聴のイメージは、自分が幽体離脱して、相手の中にすっぽりはいって、同じ気持ち、同じ体験をすること。
まぁ、それは無理なので、そういう気持ちで想像する。
だから、同じような気持ちにならなくてはいけないし、病気でつらいなら辛い気持ちになって言葉を返すものだと思っていた。
でも、それも違うそうだ。
「あなたは辛いんですね」(でも私はこう思います)と、相手が思ってるだろう気持ちには共感するけれど、自分が思うことはそのまま持っていていいものらしい!
私の思いをないものにして、相手に合わせるから疲れていたのか、とハッとした。
相手と私は別の人、だから無理に同じことを思う必要はない。
「疲れてる」は、やりすぎ、本当はしたくないの証拠だと思う。
疲れるのであれば、やりすぎだから、修正していく。
そのくらいの気持ちでやってみようと思った。
4.急がないで、悩んだまま進んでみる
看護師にとって傾聴は必要なスキルだとは思う。
心が病むと身体も傷む。
それでなくても、どんな人も自分の話を聴いて欲しいものだと、私は思う。
でも、傾聴を今すぐ完璧に手に入れなくてもいいかも、とも、今回思った。
傾聴とはなんだろうかということをやりながら考える、それもまたいいかもしれない。
結果をすぐに求めるのも私の思考のクセだ。
少し、待ってみようかなと思うと、またひとつ、気持ちが軽くなる気がした。
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