見出し画像

「戦後民主主義」とは何だったのか?

 1994年12月ストックホルムで1人の作家が「あいまいな日本の私」と題する講演を行った。その頃、「戦後民主主義」という言葉も当時よく囁かれた。ほとんど読んではいないのだが、加藤典洋の著作「敗戦後論」は恐らく大江健三郎の語った「戦後民主主義」を念頭に、それに対する批判として書かれたのだろうと思う。

 9条の会が9人の識者の呼びかけで発足し、呼びかけ人の半数以上は既に鬼籍に入った。憲法改正に向けたムードは、それ以上のものとはなっていないとしても、敗戦国に誕生した「日本国憲法」に、平和主義、国民主権、基本的人権を据え、戦争放棄が憲法に盛り込まれた。正確ではないが、田中角栄は戦争経験者がいる間は心配はないとしたことを語っていたと伝えられている。どこまで信用が置けるかはあったとしても、沖縄返還後に発足した田中角栄内閣で、1972年9月日中国交の回復のセレモニーは実現した。当時の日中の首脳周恩来と田中角栄が握手を交わし、それから既に半世紀が経過した。

 これも正確さに欠けるので恐縮だが、「日中国交正常化」は、国連常任理事国が台湾に残された中華民国から中華人民共和国へと移り変わり、家屋の屋根に登って梯子を下された様な状況に台湾は陥り、日本政府はそのことに加担してきたと言えなくもない。「台湾有事」の懸念が、反撃能力あるいは敵基地攻撃能力の保持へ日本政府が舵を切った要因の一つのようだが、そもそもはこの頃から火種はあったとも考えられる。

 1921年11月25日、当時日本政府の首相原敬が東京駅で暗殺されてから3週間後に、高橋是清内閣の下で後の昭和天皇が摂政宮に就任した。三島事件はそれから49年後に起きている。当時の裕仁親王は明治憲法下で、摂政として実質的な主権者を担う立場に立つことになった。それから約10年後、1931年9月18日満州事変が起き、1936年2月26日に陸軍青年将校らによるクーデター未遂が失敗に終わり、1937年7月7日には盧溝橋事件を機に近衛文麿内閣の下で日中戦争が始まる。1940年に計画されていた最初の東京オリンピックは、当時の文部大臣木戸孝一により開催権が返上された。大江健三郎は1935年1月に四国の森に囲まれた村に生まれ、その後間もなく、当時の貴族院で天皇機関説批判も始まっていた。

 「日中国交正常化」は、盧溝橋事件から35年余り経て演出されたが、その背景には当時ウォーターゲート事件で追い詰められつつあったニクソンが米中関係の変化をもたらす突然の訪中を実現していたこともあったようだ。「冷戦」の最中でもあったのだと思う。戦争経験者が存在している限りは心配ない…あの政治家の言葉が語られた時代の日本政府の平和外交とでも考えたらよいのだろうか。しかし、1990年8月2日イラクによるクウェート侵攻により、日本政府の平和主義は岐路に立たされる。

 翌1991年1月17日から多国籍軍がイラクに軍事攻撃を開始し、日本政府は90億ドルの援助を決定し、そのことが当時上沼恵美子からも揶揄されたりしていた。柄谷行人らをはじめとして、「湾岸戦争に対する文学者声明」が公表され、先述の加藤典洋はそれに名を連ねなかった。それ大江健三郎も同じだったが、大江のノーベル文学賞受賞はそれから約4年後のことだった。大江健三郎は1960年代に初めて広島を訪れ、1964年の東京オリンピックの開催後に、「ヒロシマノート」を出版している。それを手にすると、「戦後民主主義」はその頃から度々言及されていた言葉であったことがわかる。その受け止め方は加藤典洋とは異なるものであったのだろうと想像するが、私が直感的に感じる大江健三郎にとっての「戦後民主主義」とは、ヨハネ福音書の冒頭に現れる「光」ではなかったかと思う。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 01:02この言は、初めに神と共にあった。 01:03万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 01:04言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 01:05光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 01:06 ヨハネ福音書より

 簡単に言及することを許されるとするなら、加藤典洋は大江健三郎が語った「戦後民主主義」に欺瞞を感じていたのだろう。9条の会に関係する集会に参加してしばしば耳にするのは、高齢化やその裾野の広がりがないことに対する不安である。晩年、加藤典洋は憲法9条について、その始まりに遡って再考する試みに生涯を費やす。その一つの結論として、憲法9条の改正案を提示した。以下になる。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 以上の決意を明確にするため、以下のごとく宣言する。日本が保持する陸海空軍その他の戦力は、その一部を後項に定める別組織としてとして分離し、残りの全戦力は、これを国連待機軍として、国連の平和維持活動や、国連憲章第47条による国連の直接指揮下における平和回復運動への参加以外には、発動しない。また国連憲章第7章のめざす体制の完成後、国の交戦権はこれを認めない。
3 前項で分離した軍隊組織を、国土防衛隊に編成し直し、日本の国際的に認められている国境に悪意を持って侵入するものに対する防衛の用にあてる。ただし、この国土防衛隊は、国民の自衛権の発動であることから、治安出動を禁じられる。平時は高度な専門性を備えた災害救助隊として、広く国内外の災害救援にあたるものとする。
4 今後、われわれ日本国民は、どのような様態のものであっても、核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず、使用しない。
5 第4項の目的を達するため、今後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても許可しない。

 「日本国憲法」において、自衛隊は軍隊とは異なる自衛権の行使を主とした存在とされる立場から、踏み込んだ憲法9条改正案ともなっており、この改正案について加藤典洋は次のことを述べていた。

 私の憲法9条改定案の対案の戦略論は、この憲法9条の「交戦権の否定」条項を、その条文策定時の文脈にまで遡行して、「交戦権の国連への委譲」と読みかえ、その原初的な結びつきを強化・回復することで、国連の初期の原構想を実現すべく、日本が国連の機能強化に財政的にも、社会資源的にも人的にも多くを投資し、全力を傾注することで、アジア・太平洋周辺諸国の信頼をつなぎとめ、欧州、中東、アフリカ、南アメリカ諸国の支持を取り付け、(日米安保解消阻止への対抗として、アメリカが講じるかもしれない)日本孤立策にも対抗しつつ、最終的にアメリカも日本の親米的自立を認めたほうが得だというところまで持っていく、と言うものです。
「9条の戦後史」加藤典洋著 526頁

 本稿はそもそも、加藤典洋の著作「敗戦後論」が大江健三郎が言及していた「戦後民主主義」に対する批判として書かれたのだろうとの推測に基づき記してきたが、それが的外れであった可能性もある。現行憲法の第9条も記しておこう。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。

 加藤典洋9条改正案は第二項以下に大幅な改定を施すことを意味し、「自衛隊」について小泉純一郎が首相在任時に国会でも、それを実質的に軍隊として言及していたが、憲法に「自衛隊を明記する」ことにどれほどの価値も、意義もないことが窺える。大江健三郎等の呼びかけ人の下で誕生した9条の会の様な改正に慎重な立場は、改めて重要なことに思える。憲法改正の呼びかけは一種の方便であり、その必要性が何等ないものではないとは思うが、「サル騒動」で記した様に、象徴天皇の国民統合といった観点も本来検討が必要とされるものであろう。

 小渕内閣の下で誕生した自公政権は、1955年11月15日に発足した自民党の単独政権の終焉を示している一方で、投票率の低下や維新政党の不気味な勢力拡大が選挙の度に現れる。ポピュリズムと呼ばれる姿は正にこれなのだろう。「戦後民主主義」の姿はその様に受け止められる可能性はないだろうか。自民党発足の前年に生まれ、田中角栄内閣の発足から半世紀が経過した翌日に、安倍晋三は昨年7月8日落命しその生涯を閉じた。安倍は初めて内閣総理大臣に就任した2006年末に、会見を開き「民主主義の成熟」に言及していた。

 先に引用したヨハネ福音書の一節、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 」かのように、極東の列島にて20世紀の敗戦国となった近代国家に、「戦後民主主義」は暗闇としてあるのか、光としてあるのか、私にはよくわからない。9条の会に見られる所謂護憲の観点から、加藤典洋9条改正案に橋をかけることは可能性のないことなのか。あるいは将来的な象徴天皇の国民統合と対米自立の歩みは、政治の選択肢として必要がないことなのか。少なくとも、岸田文雄内閣にそれに応える意思がないことは間違いないだろう。



いいなと思ったら応援しよう!