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埼玉県ふじみ野市立てこもり医師殺害事件に思う

 筆者が最初にこの事件に触れたのはパソコンのネット上でだったと思う。昨年末の、大阪市で起きた心療内科の火災の事件も、やはりパソコンのネット上で知った。だから、当初詳細はわからなかったが、クリニックで火災があったようだ、立てこもりで何かがあったらしい…と、実に生かじりの知り方しかできない状態のまま、徐々に報道して伝えられることが増えだし、テレビのニュースや新聞などでも、多少その後のことを知ることになった。

 いずれの事件も、患者やその家族が加害者となり、治療に当たっていた医師が死亡し、加えてその周囲の関係者や患者が巻き添えになり、亡くなったところに幾らかの共通点が見られる事件であったように思えた。また、加害者はいずれも60代の男性であった。亡くなった医師はいずれも40代であった。偶然性もあるかもしれないが、それだけではないのかもしれない。筆者も、精神科のクリニックに看護補佐業務に携わる福祉専門職として勤務していることもあって、大阪のクリニックが夜10時まで診療していたと耳にしたときは、ちょっと驚きを隠せなかった。亡くなった医師はいずれも、治療に熱心に取り組む臨床医であったようだ。

 ふじみ野市で起きた立てこもり事件は、その数日前に加害者の母親が90代で亡くなっていて、その死後に加害者が、治療を担当していた医師らを呼び出し、心肺蘇生を求め、それに応じなかったことに怒ってのことだったのか、猟銃で発砲し殺害に至った経過があったようである。正確なことはそれ以上よくわからないが、このケースには8050問題などと称して社会問題にされている、高齢の親とその子の間に見られる生活困難な状況が、さらに進んだ一つの事例のようにも思われた。そのことについて少し考察して記しておきたいと思った。伝えられる報道にも、若干の不満もあり、悲劇的な事件ではあるけれども、この種の負の連鎖が繰り返されないために、できる範囲の可能な手立てを少しずつでも打っておくことは、必要なことに思えるのだが、そのような視点での報道には物足りなさも感じるのである。ご批判は承りたいと思う。

 ふじみ野市の事件の加害者は66歳とのことで、彼が50歳を迎えたのは16年前のことになる。つまり、2006年1月、亡くなった彼の母親は70代後半で、当時も日本政府は自公政権が担っていた。2005年9月11日に「郵政民営化の是非を問う」として、小泉内閣の下での衆院解散に伴う選挙が実施され、過半数を自公が占めたのだったと思うが、その後2006年4月からは、地域包括支援センターが中学校区に一ヶ所の想定で開設され始め、介護保険で地域密着型のデイサービスなどが新たに認められる時期を迎えていた。その後、2014年頃からは、地域包括ケアシステムということが唱えられ、病院で最後を看取る診療から在宅診療を推進するような方針の転換が進んできた経過もあったように思う。こうした社会状況の変化とその流れの中で今回の事件を捉え直す視点は必要なことではないのかと思うのだが、現場の過酷さが専門家の意見として伝えることに終始する報道に画一的な物事の捉え方を感じて多少苛々する。

 勿論、専門家と呼ばれる人たちの指摘はどれも外れたものではないだろうし、米国では訪問看護などの際に、警察官などが付き添うことがあるという現実は確かにそのとおりなのだろうと思う。しかし、地域医療に取り組む医師や看護師が、患者や家族などのクレーム対応に心身共に疲弊する様な状況を招いてきた要因の一つには、具体的な社会資源の充実やそれが図られる様な財政的な裏付け、そうしたことも不十分なまま進められてきた地域包括ケアシステムの構築にも、今回の悲劇を招いた要因の一端はなかったのか…。加害者の男性は罪を犯したことに間違いないが、なぜその様な行為に至ることを防げなかったのか。熱心な医師が、その対応能力を超える問題までを担わざるを得ない社会状況が存在して、医療従事者とは別に、専門家の指摘する他国の現実を参考にした警察官などが同行する対応が、やはり求められていることは、冷静かつ具体的な検討を要するだろう。

 また、亡くなった母親の心肺蘇生法は断らざるを得ないとしても、その喪失に寄り添うグリーフケアを担う役割の者が加害者に一定の関与をしていたならば、暴走的な犯罪を防ぐことはできなかったとしても、この社会の将来を担う貴重な医師が志半ばで命を落とすことはなかったのではないか、と後の祭りになるのだけれども、危険を伴う医療行為を防ぎ、一人の医師の身の安全を守れなかったことには、有権者一人一人にもその責任があるのではないかといった視点の報道がもっとあってもよいのではないかと思うが、そうしたメディアの報道に触れる機会も少ない。そもそも加害者となった男性はどうして猟銃を所持して、それは正当な手続きで所持されていたものであったのか。仮に正当な手続きであったなら、今回の発泡はどうして起きてしまったのか。具体的に医師が殺害されてしまったことを踏まえたなら、銃を操作する正確な技術を、加害者は持っていたことになる。この点で、大阪で起きたクリニックの火災の加害者とその遂行能力の高さに共通した一致点が見られる。そのエネルギーや能力がなぜこの様な悲劇的な事件に行使されてしまうのか?

 2006年は、小泉内閣が総裁任期を終えるとともに退陣し、第一次安倍内閣が発足した年である。発足した年の瀬には、防衛庁から防衛省に変わることが立法府で決まり、教育基本法の改正が初めてなされた「戦後レジームからの脱却」が叫ばれ始めた頃だった。当時、今回の加害男性はどの様に暮らしていたのだろう。80代を迎えようとしていた母親は息子とどの様に生活していたのだろうか。まさか、この様な未来が訪れるとは思ってはいなかったのではないだろうか。地域包括ケアシステムは絵に描いた餅だったのか?個別の犯罪の背景を掘り下げて調べることも大切なことではあると思うが、それらがこの社会の現実と有機的にどの様な関連性や繋がりを持っているのか。そうしたことが浮き彫りにされない報道には多少閉口するのである。少なくとも、猟銃の所持や保管について、市民社会においてそれが適切になされているかの監視については、ある程度の規制の強化の必要性はないのか?安全を損なう形で市民社会に広がってはいないか。もっと話題とされても不思議はないと思うのだが、そうした空気に澱むこの社会のありようを実感しないではいられない。

2022.2.1

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