短編小説|ゴリラの木と入れ代わる

 窓の外を眺めていると、少し離れた丘の上に生えている1本の木が、ゴリラのように思えた。窓の外を眺めていたのは、ぼくの仕事が家の中でパソコンに向かってつまらない文章を書き続けることで、それよりも窓の外を眺めている方が幾分か楽しかったからだ。それで、少し離れた丘の上に生えている1本の木が、ゴリラのように思えるところまできてしまっていた。だってしょうがないじゃないか、仕事は本当につまらないし、その木は本当にゴリラに見えるのだから。風が吹くたびに無数の葉が揺れ動き、その陰影がゴリラのしかめっ面に見えたし、枝の両腕で胸板を叩くことだってあった。

 ある日も、相変わらず窓の外を眺めていた。気持ちのいい気温だったので、窓を開けていた。ゴリラを揺らした風がぼくの部屋にも吹き込んできた。「おーい」とだれかがぼくを呼んだ。あたりを見回してもだれもいなかった。少し離れた丘の上で、ゴリラが真っ黒に光る眼でぼくの方を見ていた。「ゴリラの木がしゃべった!」ぼくは驚いた。

 「俺も一度、人間の生活をしてみたいんだよ」ゴリラの木はぼくにいった。それから、話がまとまるのははやかった。ぼくとゴリラの木は入れ代わることになった。丘の上まで歩いていくと、ぼくはゴリラの木になって、ゴリラの木がぼくになったんだ。ぼくの姿をしたゴリラは物珍しそうに手足を動かしてみた。そして、「ちょっと楽しませてもらうよ」といって、ぼくの家に帰っていった。ぼくはざわざわと葉を揺らしながら、しかめっ面でその後ろ姿を見送った。

 そのあと、ゴリラの木はしばらくぼくの部屋で窓の外を眺めたり、台所をうろうろしたりした。何日かして、外へ出かけることを覚えたみたいで、部屋に人気がないことが多くなった。ある時は、夜遅くになって部屋の明かりがついて、何人かで騒いでいるようだった。パーティーをしているのだろう。ぼくは自分の部屋に友達を呼んだことなんてなかったのに。それから、パーティーは頻繫に行われるようになった。ゴリラの方がぼくよりも社交性があったのだ。

 ある夜なんか、ベランダにゴリラと美しい女の子が二人きりで出てきて涼んでいた。やがて、ゴリラは女の子にキスをした。とてもうらやましかった。ゴリラはぼくにできなかったことを、恋も仕事も、どんどんやり遂げていった。

 数年経ったころ、ぼくの部屋のカーテンが取り払われた。中は空っぽだった。ゴリラはどこかへ引っ越すらしい。毎日仕事は順調そうだったし恋人とも上手くやっていて、すべてが順風満帆だったから、もっといい部屋を借りたのだろう。家を買ったのかもしれなかった。とにかく、挨拶もなしにゴリラはぼくの前から去っていった。

 それからも、ぼくは風に吹かれてざわざわ揺れて、しかめっ面で胸板を叩いたりしていた。かつてぼくの部屋だった部屋に、新しい住人が引っ越してきた。眼鏡をかけてひょろりとした男だ。ぼくは、以前ゴリラがやったみたいに、その住人に話しかけようとした。でも、新しい住人は眼鏡をかけていたし、植物に詳しかったから、ぼくがゴリラの木ではなくて、ただのクヌギの大木だってことをはじめから理解していた。それで、ぼくがいくら話しかけても聞く耳を持たなかった。木がしゃべることはないのだ。

 時が過ぎて行って、何人もの住人が部屋に入居しては出ていったが、ぼくのことをゴリラだと気がつくやつはいなかったみたいだ。何度か大きな台風がきて、枝が折れたりもしたけれど、ぼくは元気だった。枝は伸び、葉は茂り、頭の上で小鳥たちがさえずっている。まるでパーティーみたいに。だから寂しくない。いろいろあったけど、ゴリラと入れ代わってよかったと思っている。最近では、だれかに話しかけることもなくなった。自分が人間だったことも、そのあとゴリラになったことも、忘れている時間の方が多くなった。このまま、ぼくはただの木になるだろう。また、あの部屋に引っ越してきただれかが、ぼくのことをゴリラのようだと思うまでは。

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