短編小説|死人に口なし

東京は住みやすい街で、仕事をするには最適だった。
地下鉄、スターバックス、やけに広い公園。
でも、2010年代の半ば、妻と話し合って引っ越すことにしたんだ。

大きなスーツケースに全財産を詰め込んで、バスに乗って南へ向かった。
南へ向かうにつれて、開け放たれた窓からハエが飛び込んでくるようになって、車内が騒がしくなった。
死の香りが強くなった。立ち込めていた。死者の世界だ。

椰子の木が揺れていた。太陽が照らしていた。
何を? 行方不明になったぼくたちの行方を。

死者のターミナル。
バスやタクシーが集まり、人々でごった返す。
誰もが大きな荷物を抱えていた。
死者の世界で過ごすための物資。帰りは土産を詰めて帰る。
彼らが進んでいく先にあるのは、死者の門だ。

死者の門をくぐると、市場が広がっていた。
画材店を見つけて、アクリル絵具を何種類か買った。
どれも東京では見たことのない色だった。
東京で見たことのない色、東京で感じたことのない光。
東京で育ったことのない人々、東京でなくなった東京。

死者の世界の夕暮れは長い。
全ての影が地平線へ伸びきるまで、日が暮れることがない。
それでぼくと妻は自転車を借りて海岸まで行って夕陽を眺めていた。
妻は東京で見たことのない顔で笑った。
「引っ越してきてよかったね」といった。

住む環境を変えることで、新しいアイデアが浮かんでくると考えていた。
でも、死者の世界ではアイデアが浮かぶことがなかった。
アイデアがないのが死者の世界であった。
それで、ぼくは早々に絵を仕上げるのをあきらめて、カフェのテラスに座って雲の流れと潮の満ち引きを一日中ながめることにした。
死者のタキザワさんがやってきて、ぼくに話しかけた。
「なにをしてるんです?」
「雲や海を見ているんです」ぼくは答えた。
「雲や海を見ているなんて、まるで生きているみたいですね」タキザワさんは驚いた表情でいった。
タキザワさんは黒いドロドロになって人の形をしていなかった。彼は根っからの死者であったのだ。

この一件があってから、ぼくはすっかり気が滅入ってしまった。
妻はある晴れた朝にサイクリングに出かけたきり、何週間も帰ってこなくなっていた。
寂しくなって街はずれまで探しに行った。
久しぶりに見る死者の門。
以前ターミナル側から見たときは、期待にあふれていたっけ。
内側から見ると、門のアーチには大きく文字が書かれていた。

「死人に口なし」

ぼくはとぼとぼ家まで歩いた。
歩きながら、画家ではなく詩人になればよかった、と思った。
でも、結局のところぼくらはみな詩人。
東京に帰りたいと思う詩人。
東京にない言葉で書く詩人。

真っ白な壁に囲まれた部屋で、ぼくは今でも絵を描いている。
アイデアが浮かばないから、本当は何も描けていないけれど。

むかし、東京と死者の世界はつながっていて、特定の手続きを踏めば行き来することができた。
どうも、今は違うらしい。


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