短編小説|くるしみPay
上司に理不尽に怒られた仕事の帰り、コンビニに寄って夕飯を買った。レジで「くるしみPayで」と言うと、店員は「かしこまりました」と言ってレジを操作した。残高、14,080円。今日もよくくるしんだらしい。
クライアントに理不尽に怒られた仕事の帰り、コンビニに寄って夕飯を買った。やっていられない気分になって、缶ビールも買った。レジで「くるしみPayで」と言うと、店員は「かしこまりました」と言ってレジを操作した。残高、17,990円。今日もよくくるしんだらしい。
大学生だったときから使っていたノートパソコンが古くなってきて、買い替えることにした。支払方法はくるしみPayで分割払いにした。これからも毎月くるしみがあるだろうから、不安はあまり感じなかった。
そうして、くるしみながらもぼくは恋人と結婚して、子どもが生まれて、くるしみローンでマンションの3階に小さな家を買った。よろこびがあり、くるしみがあり、生活があった。
仕事の帰り、近所のスーパーに寄って買い物をした。レジで「くるしみPayで」と言うと、店員は顔をあげてぼくをちらっと見た後、「かしこまりました」と言ってレジを操作した。赤いライトが光って、支払エラーになった。残高不足だった。今日もだいぶくるしんだはずなのに、思ったよりチャージされていない。
日に日にくるしみがチャージされなくなっていった。職場では毎日十分にくるしんでいるはずなのに。いつものスーパーに寄った帰り、あのレジの店員が、今は休憩中なのだろう、外で煙草を吸っていた。一瞬目が合うと、彼女は「くるしみがチャージされなくなってますね」と言った。レジ以外で話すのははじめてだった。「ええ。そういう人、多いんですか?」ぼくは思わず聞いた。「多いですね。みんな、心がだんだんくるしみに慣れてくるんです。そうすると、ちょっとしたくるしみではチャージされなくなってくる」彼女はそう言って、煙草を1口吸った。
ぼくは今日の出来事を思い出していた。くるしみを感じたことは、確かだった。でも、それはどれだけのくるしみだろうか。目の前の彼女の方が、くるしいのかもしれなかった。彼女の煙草のけむりが夜の中を漂っていくのを、街灯が照らし出している。その街灯のまわりを、1匹の蛾が狂ったように飛び回る。ぼくや彼女よりも、蛾の方がくるしいのかもしれなかった。「1本吸います?」彼女が言った。ぼくは1本もらって、久しぶりに煙草を吸った。
「まだ家のローンがあるんです。家族もいるし、もっとくるしまないと」ぼくは言う。「くるしみPayを使うお客さん、みんなくるしそうな顔をしてます。当たり前ですけど。だからあまりおすすめしません」彼女は言う。「でも、どうせくるしむなら、くるしみでPayできた方がいいと思いませんか。実際、ぼくはくるしみPayで色々なものを手に入れました」「真面目なんですね」彼女は短くなった煙草の最後の1口を吸う。ぼくのレジ袋の中で、さっき買った缶ビールが汗をかいている。ぼくはこれから、どれだけくるしんで、何を手に入れるのだろうか。ぼくの子どもも、くるしむのだろうか。ぼくたちは、これからどれだけくるしめば済むのだろうか。生暖かい風が吹いてきて、最後のけむりはどこかに消える。
いつの間にか、彼女も消えていた。ぼくは家に帰る。マンションの3階の右から2番目のぼくの家には、まだ灯りがついていて、家族が待っている。
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